社会思想社『こけし 美と系譜』より。
「木地師が出稼の時、親王勘請の八幡宮(現在蛭谷にある)より、他山に出る許可と皇室御許可の木地師として全国どこ(西は艪櫂の立つ限り、東は駒のひづめの通うところ)の山でも八合目以上の木は伐採自由という資格の身分証明書をもらった。証明書として一台のろくろ、御綸旨の写し、木地業由来書、免許状、往来手形、宗門手形などを下付された。筒井公文所といって木地関係の中央官庁であった。轆轤職総取締所という。木地師が成人し免状をもらう時、遠方より筒井に出かけるのは大変であったから、八幡宮への寄進をかね筒井の方より帰雲庵の僧を伴い薬等をもって全国を巡回して木地師を統括した。この「氏子狩」は天正四年(1576)より始まったとされるが、現在の蛭谷文書として帰雲庵内に保存されている氏子狩帳は延享元年(1744)より明治二年までのもので、江戸中後期のものが多い」。以上。