「続・こけしと私」宇田川智恵子氏。
家人からの手紙が残っております。日付は昭和19年8月20日です。最初にこけしが出てくる手紙です。抜き書きしますと「コケちゃんはどうしました。お家のコケちゃんはお机の上にかざりました。智恵子のシャンシンといっしょに毎日、お母さんとお話しして居りますよ。今朝、お父さんがインゲン(ハタケの)を取ってまいりましたから智恵子とコケちゃんにあげてから皆でたべました。」
私には、そこまでの思いは分かりませんでしたが、東京に残っている者にとっては、私の持っている一本と東京に残った何本かとの間には、祈にも似た気持ちが込められていたのだと思います。
スキーをはじめて履いたのは20年の冬でした。今、思えば、新地部落の前を通って、その奥の緩い傾斜で、滑ったというより、転んだスキーでした。ここでこけしが生まれるなどという事は全然知りませんでした。
20年7月10日未明、仙台に空襲があり、この時は、防空頭巾を被って、松川の川原に避難し、仙台の燃える火を美しいなァと眺めました。丁度、家人が面会に来ており,久し振りにぐっすり寝たといわれ、東京は大変なんだなァと子供心に思いました。後に、聞いたはなしですが、こけしを求めて帰ろうとしたそうですが、又、いつ、空襲で焼けるかも知れず、可愛そうなのでやめたと云う事で、この時は、街にこけしがあったのです。
まもなく、終戦を迎え、9月にはむかえが来て、東京に戻りました。この時には、今度こそ、大丈夫だからとこけしを求めて、温泉街を歩いたそうですが、こけしは目に入らなかったそうです。
子供の頃の記憶の内外のこけしについて書きました。「こけし」は物心がつく前から私にとって「縁があった」のです。この事を大事にして「こけし」と仲良く、末永く付き合っていけたら幸せだと思っております。以上。
※ 私は、終戦の時、3歳だったので、宇田川さんは、私より少しお姉さんですね。それでも疎開先が遠刈田温泉だったというから、「こけし」との深い縁があったのですね。しかも、現在もこけしに携わっているとは、幸せその物でしょう! 羨ましいかぎりです。