『こけし手帖』平成19年12月号 563号「例会ギャラリー」より。
津軽系こけしは、単純素朴で、津軽の風土によく溶け込んでいる気がする。木地師と描彩者が、別人の場合が多く、木地を挽いた工人名となっているのも、他の系統と違うところだが、それが又面白い。ギャラリーに毛利専蔵を取り上げたのも、そんな背景があるのかもしれない。
専蔵は、古い時代の木地師、毛利茂太郎の長男として大正5年11月に生まれ平成16年1月86才にて亡くなられている。14才で父に付き木地修業するも、盛秀太郎の影響を受けたこけしを作っていたが年々大きく変化していき、戦後は津軽地方独特のひなびた泥臭さは無くなり、近代的な表情となっていき、少しさびしさを感じている。描彩は妻「たま」で専蔵名で店に出しているといわれているが、木地に関しては、専蔵が挽き描彩は(顔は、専蔵ー昭和45年当時ーが描いていた)専蔵が葉を書き、妻が花を書く、又はその逆というような、共同作業的で、山谷一家なども、誰がどこを書くという決まりが無く、持っている筆の色で、花弁や花や草になった混描であったようだ。
最初の文献は、橘氏の「こけしと作者」で、写真での紹介は、鹿間氏の「こけし・人・風土」である。
父茂太郎のこけしは、現存していないといわれていたが、木村弦三コレクションに4本有ったことは、喜ばしいことであり、当会でも平成9年4月に今晃作で頒布した記録がある。
6寸、戦前作で、明らかに盛秀太郎の影響が見て取れる。
6寸、戦後作26~27年頃中途半端な時期で、変化の始まりかけた頃作。まだ表情はあどけない。
7寸、50年3月入手、描彩から見ると30~32年作。
7寸、昭和45年作この頃になると表情は固定化し混描分業化。
ゼ棔⊂赦50年入手。
8寸、昭和60年入手。
他に平成9年今作、茂太郎型。昭和54年秋泥土の中から出土の4本の中の1本復元を展示。以上。吉田博人氏著より。