『こけし手帖』平成22年6月号 593号「例会ギャラリー」より。
私がこけしの蒐集を始めた頃に入手した中に大沼昇治の梅こけしがあった。以来、この梅こけしの蒐集にも力を入れてきたが、その誕生の由来を知ったのは最近である。手帖54号の米浪庄弌氏の「円吉梅こけし」の中に記載されていた。それによると、米浪氏は産地訪問の旅をする際にこけし絵を描いた名刺を持参し、それを訊ねた工人に渡すのが常であったことのこと。そして昭和14年5月の旅では大野栄治の梅こけしを描いて、それを遠刈田の佐藤円吉にも渡したのであった。後日、円吉から送られてきたこけしに
米浪氏は驚くことになる。何と円吉のこけしは大野栄治のこけしをそっくり真似たものであったからである。米浪氏は直ぐに円吉に手紙を出し、このようなこけしを作らないように説得したが、時既に遅く、円吉は他の愛好家にも送っており、以来円吉の梅こけしとして定着してしまうのである。
円吉の梅こけしは当初はこけし絵を真似たもので、胴の梅は胴下部に2輪、胴上部の胸に1輪の簡素なものであったが、やがて花数が増えて華やかなものとなる。円吉の息子・治郎もこの梅こけしを継承したが、次第に治郎自身の特徴が現れて、治郎型梅こけしへと変わっていった。治郎の弟子である大沼昇治の梅こけしは、当初、この治郎型梅こけしをそのまま真似たものであった。
その後、昇治は円吉の梅こけしを目指すようになる。
先ず作ったのは、初期の円吉型梅こけしで、切れ長の目と簡素な梅模様のこけしであった。この型は昭和40年代末には完成の域に達する。やがて昇治の目標は後期の円吉型梅こけしとなる。湾曲の大きな目で花数の多い華麗な胴模様のこけしである。
遠刈田の異色の梅こけしも昇治亡き後は後継者が現れない。寂しい限りである。
写真は右から大野栄治、円吉、治郎、昇治2本のうめこけしです。
以上。こけし友の会・国府田恵一氏著より。