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Channel: こけしおばちゃん
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鳴子系のこけし

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 鳴子系こけしは、鳴子温泉近辺で作られ、胴は太く、中ほどが少し細い。肩には段があり、下はめ込み。頭を回すとキイキイと鳴る。頭頂は、前髪を水引で結んだ「水引き」などが特徴。鳴子温泉街には、各こけし工人のお店・工房が軒並みにあり、こけしフアンにはたまらない魅力の町なのです。今年、鳴子の全国こけし祭りに参加して、伝統こけしは鳴子から始まったのだと思った。
 今年、求めたこけし(写真)は、昨年、全国こけし祭り会長賞・文部科学大臣賞を受賞した桜井昭寛工人の八寸五分のこけしです。綺麗なこけしでしょう? 我が家には、父の桜井昭二こけしがあるのです。
 父・桜井昭二工人(昭2年~平成23年)は、桜井万之丞、桜井コウの長男。昭和20年より伯父の大沼岩蔵の指導を受け、木地描彩ともに抜群で鳴子の代表的工人の一人。岩蔵型、庄司永吉型、万之丞型など各種つくり、いずれも成功して受賞こけし多数ある。
 桜井昭寛工人(昭和26年生まれ)は、昭二の長男。昭和45年より、父昭二のもとで修業。47年から描彩をはじめたが、父昭二によく似た綺麗で上品なこけしをつくった。岩蔵型と祖母コウ型を継承している。 
 

鳴子系・佐藤賀宏工人のこと

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 鳴子系こけし工人・佐藤賀宏(昭和11年~平成27年)さんの事です。先日、鳴子こけし館を訪ねた時に、これから佐藤賀宏工人宅に伺う予定のお話をしたら女店員さんが「あー! 実は先日亡くなられました。8月20日に、私たちもびっくりしているんです」ということでした。
 もう30年以上も前の事、四国松山のデパートに、鳴子系こけし工人・佐藤賀宏さんが3~4年続けてこられました。すっかり親しくなりました。鳴子こけしや色紙などが、我が家に並ぶようになったのです。
 東北大震災前の年の5月、鳴子を訪ねた時に、佐藤賀宏工人宅を訪ねました。奥様のすづ子工人も居られてお話がはずみました。その後、佐藤工人が「鳴子こけし館」に連れて行ってくれました。お世話になったのです。すごく優しく温和な方でした。残念ですね。
 佐藤賀宏工人は、昭和27年、岡崎才吉に弟子入りし、39年独立。誠実温和な人柄だが、こけしは筆致闊達で、きわめて整い、鳴子こけし界でも中堅として信望が厚く。活躍してこられたのです。すづ子工人も活躍中です。
 ※その日、訪ねてお悔やみを思ったのですが、まだ、亡くなられて二七日ほどだったのでやめました。ご冥福をお祈りいたします。写真は、昔、撮った我家の賀宏こけしです。

久万高原町のこけし展

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 「久万高原町でこけし展しているよ」と、お友達が教えてくれた。久万高原町なら「創作こけし展」だと思って行ってみた。
 久万高原町には、旧美川村出身で、通信販売会社「セシール」の創設者で、久万高原町の名誉町民第1号になられた「正岡道一氏」が寄贈した創作こけしがあるのです。時折、道も駅「天空の郷・さんさん」にて展示しているのです。
 創作こけしは、伝統こけしと違って、典型的なこけしの枠にとらわれず、さまざまなポーズをとったり、赤や藍など色とりどりの華美なこけし、1メートル以上もある大きなこけしがずらりと並んでいる。見事ですね。
 展示の創作こけしは、全国近代こけし展や、白石の全国こけしコンクールなどで、総理大臣賞や、各賞を取った名工ばかりの作品が、今回は40点ほど並んでいる。
 因みに、関口三作氏、渡辺正雄氏、加藤龍雄氏、沖泰宣氏等の作品です。
 ※久万町では、寄贈された作品を時折展示して、皆様に見ていただきたいと創作こけし展をしていく予定だという。

「夏」いつまで?

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 昨日の愛媛新聞に興味深い記事があった。それは、、、
 日本という国は、縦長の列島に沿って移ろう「日本の四季」。住まいや暮らしなどに関する情報サイト「アットホームボックス」が全国の20~50代の男女1410人を対象に「夏は何月何日までだと思うか」を聞いたところ、北海道と沖縄県では約1ヶ月の開きがあり、全国の平均は、9月8日だった。
 都道府県別の平均は、北海道が8月29日、沖縄は9月28日。総じて北国は早めで8月末か9月初旬の回答が多く、九州は遅めで福岡県の9月15日など中旬ごろが多かった。
 夏の終わりを感じさせるものは、ヒグラシやスズムシなど虫の声や、「ススキを見掛けたとき」「うろこ状の雲を見掛けたとき」など自然の変化、「市民プールの営業終了」「夏の高校野球が終わったととき」などの回答が目立った。
 ※私は日本の四季の移り変わりが大好き。夏もが終わり、秋も深まってきて、今年も終わっていきます。このようなアンケート大好きです。

「曼珠沙華」の花

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 久万高原町から小田深山を抜けて大洲に出た。道端には、曼珠沙華が満開・群集して咲いていた。街中では見られない風景だった。
 曼珠沙華は植物学上の正式の名は彼岸花。この花ほど、地方によっていろいろな呼び名を持つ花も珍しく、千種を越すという。彼岸花科の多年草で、有毒植物の一つ、子供の頃は毒花として教えられていました。その名も、死人花、幽霊花、捨子花などという不吉な名があるが、曼珠沙華は、赤い花という意味で経文から出たというから、決して不快な花ではなく真っ赤な花は優雅に見えますね。いけばなにも生かされている。
 お彼岸のころになると花が突然に咲き出し、お彼岸が過ぎると急に消えうせてしまうのです。お彼岸には、春彼岸(春分の日)と秋彼岸(秋分の日)があって、我が地方では「秋のお彼岸はほっとけ」といって、春のようには丁寧に仏さまを飾ることはしません。写真は道中彼岸花に囲まれた民家です。
 ※久万高原町から大洲に出る手前の内子町大瀬に、芥川賞作家、ノーベル賞作家の大江健三郎氏の生家があります。きれいにお掃除をされていました。
 
 
 
 

「敬老の日」の事

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 春のゴールデンウイークが終わって、「敬老の日」をはさんでシルバーウイークが始まった。
 今朝、庭の草を引いていたら「敬老会、行きませんか?」のお誘いがあった。私は、まだ三年程先ですからとお断りしたのです。
 松山市では、敬老の日にお年寄りを招待して、各町内の公民館や分館で、食事をいただいたり、演芸、カラオケなどして楽しみます。70歳以上の地区や、75歳以上の地区もあって、地区によって違うのです。
 以前、公民館の職員をしていたときの事、市からの委託で、当公民館で敬老者に往復はがきを出して案内していました。当時は、70歳以上の高齢者に案内を出していたのですが、ある年に当公民館では、1000人以上になったので、運営委員会で、70歳から75歳に引き上げたのです。ところが、「楽しみにしていたのに!」という苦情が殺到したのです。中には延びて嬉しい!とか。
 国民の4分の1が高齢者だという。私は、お世話する立場だったが、招待される年齢になった。いつまでも若いと思っていても、高齢者講習や、体力の低下などで、おのずと意識が、高齢者になってきました。ちょっと淋しい!
 

遠刈田系こけし・佐藤英裕工人

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 親子三代こけし一家。遠刈田系・佐藤英裕工人(昭和26年生まれ)は、遠刈田の名工、佐藤丑蔵の孫、英裕工人は、父、佐藤文男の長男。父の木地下を挽くことが多かったが、木地描彩とも優秀であり、とくに丑蔵型の描彩は上出来で、早くから活躍している。奥様の佐藤君子(昭和24年生まれ)工人も、こけしを作り、こけしの里丑蔵庵で活躍している。(写真)
 父、佐藤文男工人(大正12年~昭和61年、享年62歳)は、名工丑蔵の長男。物心ついた時には父、丑蔵は不在だった。小学校卒業後、佐藤文助に弟子入りし、忠実なこけしや玩具をつくっていたが、のちの丑蔵の湯田型復元。蒐集界を大いに賑わせた。丑蔵・文男・英裕と親子三代が木地を挽く丑蔵庵の創業は、きっと文男長年の夢であったに違いない。今は無き文雄工人だが。(こけし時代・特集遠刈田)より。

遠刈田系こけし・佐藤英太郎工人

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 遠刈田系・佐藤英太郎工人(昭和14年生まれ)は、祖父・直助型、父・秀一型の伝統を継承しているほか遠刈田の古い時代の作品を研究し、木地描彩ともに優秀で、また伝統に基づいたオリジナルの型も多数作出している。そして多数受賞作も多く、近年はコンクールに出品せず各地で個展を開いているという。
 やはり、佐藤英太郎工人も親子三代こけし一家といえるでしょう。祖父・直助の息子・秀一(大正3年~昭和19年)もまた親に似て才気煥発な工人だった。父の仕事を見て育った少年は研究熱心で図画を得意とし、伝統を踏まえながらも新しい感覚の描彩を考案、その斬新さは新時代の木地人形の誕生を思わせた。しかし、31歳 ビルマで戦死したのです。その美の魂は、息子・英太郎に受け継がれている。「こけし時代」より
 ※祖父・佐藤直助工人は、続いてこけし時代の特集で載っている。

艶やかなり直助こけし

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 艶やかなり直助こけし。遠刈田系こけし・佐藤直助工人(明治6年~昭和12年、享年65歳)胴に滲む木目模様の艶麗さは遠刈田随一である。蔵王高湯にも赴き弟子を養成するなど周囲の工人に与えた影響は計り知れない。工人達は、直助の技に敬慕し、蒐集家は美に魅せられた。長く北岡木工所の代表工人として働き、書の腕前も至妙。知識人であった。
「こけし時代・遠刈田特集」より。昭和6年、蒐集家・橘文策が遠刈田の北岡木工所を訪ねた際、老工・佐藤直助は工場主任だった。若い頃の直助はこけしや玩具をよく挽いたが、北岡工場に入った頃は高度な技術を要する横木挽きを専門に行い、こけしや玩具は若い工人に任された。昭和に入るとこけしを求める蒐集家が現れ、直助も再びこけしを作り始めた。昭和12年に亡くなるまで、息子・秀一や若い工人に、手を取って教えたに違いないと。
 ※直助工人は、胴模様の木目模様は、明治23年、18歳の時の創作だという。

「息子の年取った白髪頭が見たい!」

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 あの明るい元気な北斗晶さんが、乳がんと診断され、右乳房の全摘出手術受けるという。明るい幸せな北斗一家の悲しみは計り知れない。どうぞ戦って元気な姿を見せて欲しいものです。
 私自身、当時の苦しい乳がんの闘病生活が思い出される。平成16年の定期検診で、針で突いたくらいの黒点が見えた。触診、エコー等では見つからず、マンモドーム生検で悪性といわれ、手術を受けた。私の父も、胃がんで亡くなっていたので、ガン体質ではあったが、、、「何で私が、、、何も悪い事なんかしていないのに」、、、数日泣いてしまった。手術当日、息子、兄弟夫婦の顔が見えた時、絶対元気にならなければと思ったのです。
 手術後、抗がん剤、気だるさ、脱毛状態が続いたが、自分で辛抱しなければと頑張った。現在は、検診も欠かさず受けて元気です。友達からは、自覚が足りないとも言われるぐらい元気でいます。
 北斗晶さんが「元気になって、息子たちの年取った白髪頭が見たい!」と言っていたが、母親ならば、本当にそうですよ。涙が出てしようがない。

 

工人たちの「北岡商店」

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 明治40年頃から新地の工人たちは遠刈田の土産物店である北岡商店と小室商店それぞれの専属となって働く様になった。これを仕送り制度と云い、木地等の材料は店が持ち、作った品物も引き取るが、工人たちは、通い帳で店から米や味噌等の生活必需品を買わなければならなかった。この制度は店側に有利な仕組みであったので、工人たちの暮らしが楽になることはなく、大正6年、ストライキを起こすまでに困窮した。その後、北岡商店は木地工場を設立。新地の工人たちを集めて木地製品の大量生産を行った。当時北岡商店で売られていたこけしは、商店主「北岡仙吉」、小室商店のものは「小室万四郎」名義で世に出ていた。制度のよし悪しはあれど、このアルチザン(職人)たちのギルドが、多くの名品こけしを残す基盤となった。「こけし時代」より
 ※写真は「こけし時代、特集遠刈田」より、大正10年の北岡商店。昔の徒弟制度ですね。昔はこけし工人さんたちも苦労をしたのですね。

宇和島の「鯛めし」

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 宇和島のお墓参りに行ってきました。昼食は、宇和島の「鯛めし」を頂きました。「鯛めし」は、地域によって、大きくは二つの種類に分けられます。
 中予地方(松山方面)と東予地方(四国中央市方面)では、一尾丸ごと焼いた鯛を、醤油や塩で味付けした半炊き状態の炊き込みご飯の上に載せ、さらに加熱して炊き上げる。私が焚く時は、生の鯛を処理して、醤油だけでいっしょに炊き込みます。これがあっさりして一番美味しいです。が、
 宇和島の鯛めしは、鯛の刺身をご飯に載せ、特製のタレと生卵、ゴマやきざみねぎなどの薬味を混ぜたものをかけて食べるのです。宇和島だけの鯛めしなのです。
 それは「その昔、海賊たちが、火の使えない船の上で酒盛りをした時、酒を飲んでいたお椀にメシを盛り、生の鯛の身をのせてそのまま食べたのが始まりだといわれている。新鮮な鯛の風味が生きた、日本でも宇和島だけに伝わる独特なものです。」ぜひ頂いてみて下さい。

遠刈田系こけし・佐藤丑蔵工人

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 遠刈田系こけし工人・佐藤丑蔵(明治22年~昭和61年、享年97歳)は、湯田温泉の小林木工所にて長年指導したので影響を受けた工人が多い。
 『こけし時代・と特集 遠刈田』『写真』より
 「湯田の鉱山師・小林辻右衛門は、豪雪地湯田に冬期副業の為の木地挽きを思い立ち、伝習所の設立を及位の佐藤文六に相談。湯田には文六のもとで働いていた佐藤丑蔵が赴くことになった。大正十年、和歌郡木地伝習所として足踏みろくろ五台程の木工所を設立。高橋市太郎、小林善作、小林英一らが木地挽きを習得した。指導員 佐藤丑蔵は、湯田に定住。
 その後二十年以上住み続け、頭の四角い丑蔵こけし発祥の地となった。こけしは伝習所経営者(小林辻右衛門)名義で世に出た。丑蔵が湯田を去った後は小林善作が受け継ぎ、細々ながらも各種木地製品や(およねこけし)等の湯田土産が作られた。現在、小林定雄工人がその意思を継ぎ、湯田でこけしを作り続けている。」
 ※四角い頭の丑蔵こけしは、小林定雄工人が継いでいるのです。すごく嬉しいです。五年前に工房を訪ねて、食事も頂いたことを思い出します。

いざよふ(十六夜)月

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 朝の5時くらいから毎日歩いている。涼しくて気持がいい。昨日の朝(中秋の名月の翌朝)、沈みかけた真っ赤な大きな月がすごく綺麗だったので、今朝、カメラ持参で歩いたが、昨夜から雲間にかくれて撮れなかった。
 いざよふ月は、中秋の名月の翌日の月のこと。十五夜よりやや遅れて出るので「いざよう月」の意味で十六夜といった。いざようはためらう、たゆたうの意、古くは「いざよう」と澄んで発音した。この夜から月は少しずつ欠け始めて月の出も遅れる。私は、いまだに自然のいとなみに感動する。
 秋を三分して、初秋、仲秋、晩秋という。その仲秋は、大体9月中旬から10月初旬に当たる。陰暦8月15日のことで、その夜の月が古来仰がれた「中秋の名月」である。
 ※子供の頃から「お月見」は、月見団子を作り、野菜、果物等をお盆に盛って、豊作を祈り、観月会等で、お琴を弾いたりしたて、賑やかに過ごした事が懐かしい!。満月の夜「今、お月様がまん丸で綺麗よ!見てご覧!」と孫に電話をした。

遠刈田温泉とこけし

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 宮城県苅田郡蔵王町にある遠刈田温泉。そして、遠刈田系こけし。
 奥深い山村の風情が漂う蔵王町の遠刈田新地、蔵王東麓の遠刈田温泉に隣接する一帯が、遠刈田系こけし発祥の地である。明治の初めのころ新地七件と称され、全戸、佐藤姓を名乗る木地集落であった。
 遠刈田新地の木地業は約300年前にさかのぼるが、二人挽き時代は三日に一度ロクロを回す程度の悠長なものだったと伝えられる。遠刈田系のこけしは、文化文政期(1604~30年)に庶民の間で盛んになった温泉湯治の習慣に伴い、温泉土産として創始されたというのが通説になっている。そして従来、研究者たちの間では、遠刈田新地こそ全こけしの根源地と考えられていた。高橋五郎著『癒しの微笑み』より。
 ※平成19年、こけしコンクールにはじめて参加した時、蔵王高原ヒュッテに泊まった。翌朝、宿の方が「蔵王のお釜」に連れて行ってくれたのです。霧に包まれていたが、お釜に着いたとたんに、さっと晴れ上がりブルーグリーンの輝く「蔵王のお釜」が見えました。感動でした。そして、蔵王から下山すると遠刈田温泉。遠刈田系こけし工人のお店兼工房が並び飛び上がるほど嬉しかったのです。

遠刈田系こけし・佐藤哲郎、せい子工人

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 遠刈田温泉のバスターミナル前に佐藤哲郎、せい子工人のお店「木地屋」がある。穏かな優しいお顔ですね。
 遠刈田系こけし工人・佐藤哲郎(昭和7年生まれ)は、遠刈田の名工、佐藤吉弥の長男。吉弥型の実にいいこけしを作る。人柄も良く遠刈田こけし界のいい指導者となって活躍している。木地玩具も素晴らしい。
 父、吉弥工人(明治29年~昭和40年、享年70歳)は、遠刈田新地に生まれ、大正10年、北岡工場が出来たので職員として働いた。終戦から、ロクロを取り付け、長男、哲郎と共にこけしを作り、吉弥一家のこけしとして広く知られていった。
 佐藤せい子工人(昭和6年生まれ)は、昭和29年、結婚してから、こけしの描彩を習って、哲郎とともにこけしを作っている。
 ※、奥深いこけしの勉強をしているうちに、遠刈田温泉にて立ち寄った工人の工房であったと、、、。もう一度行ってみたいと思う。

遠刈田系こけし・作田孝一工人

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 写真は「こけし時代・遠刈田」より。
 遠刈田系こけし工人・作田孝一(昭和10年生まれ)は、作田隆の長男で、昭和27年、父、作田隆のもとで修業し、昭和29年より遠刈田新地で、父とともにこけしを製作している。父の伝統を継いでいるが、父に比し素朴な情味を持っている。地味な型なので話題になることが少ないが、遠刈田系こけしの基本の型として珍重すべきこけし工人でもあるのです。
 ※我が家のこけしの作者は、ほとんど高齢になり寂しいことですが、作田孝一こけしは、昔、松山のデパートで東北物産展にて求めた数本のこけしがあ里懐かしく、最近のこけし展では、なかなか見ることがなく、こけし時代の本で見かけたので、懐かしくなったのです。優しいお顔をしていますね。

遠刈田系こけし・佐藤富雄工人

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 我が家のこけしの中で、一番好きな顔のこけしです。可愛いでしょう?
 遠刈田系こけし工人・佐藤富雄工人(昭和3年生まれ)は、佐藤文助の長男。父・文助こけしの継承者である。父以上に華麗なこけしをつくり、模様の重ね菊、桜崩し。枝梅、ロクロ摸様、あるいはそれらの組み合わせによるバラエティに富んだ配色はすばらしい。木地描彩とも優秀で人気があった。昭和52年に父、文助が亡くなった後は一人でロクロを回していた。その後、富雄工人は、目の古傷が悪化して、平成20年頃より休業しているという。 
 ※この写真の富雄こけしは、ずいぶん前のこけしです。お友達に、可愛いのでかなり上げたのです。はやり、最近は見ませんね。こけし時代に佐藤富雄工人が載っていたので、懐かしくなりました。    

こけし以前の美発見

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 こけし工人の工房を訪ねると、こけし以前の美を発見することができる。
 遠刈田系こけし・平間勝治工人(昭和16年生まれ)の工房。むせるくらいに木のいい香りがする。ここには、ありとあらゆるこけしの原木が集められ、木地挽き作業する工程の材料が所狭しと並んでいる。
 現在、平間勝治工人は描彩はほとんどせず、木地師として活躍している。同業者を支援すべく無理難題な木地を挽く縁の下の力持ちと言えるかも知れません。写真では、木地挽き専門の工房でこけしが生まれる前の木の美しさを再発見できます。
 ※こけしの原木は、みずき材が描彩をほどこすため、地色の白い木が最も多いが、いたや、かえで、最近では、さくら、つばき、けやき、くわなどの有色材もよくみることがある。いずれにしても、ロクロ挽きをしたこけしの姿は可愛らしい。

高齢者は何歳から?

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 新聞のコラムに「高齢者は何歳から?」とある。我が国の65歳以上を高齢者と定義すると、我が国における高齢者はこのようになる。
 「50年前の昭和30年当時は、平均寿命が、男性63.60歳、女性が67.75歳であり、平均寿命を超えた人が高齢者と呼ばれていた。現在では、男性78.64歳、女性85.59歳となり、この50年間に男性15歳、女性18歳も伸びている。また、百歳以上の長寿者は、25.000人を超えている(25.554人)。平均寿命が伸び、元気で活動的で、社会や地域において、それまで培ってきた知識や経験をいかし活躍している高齢者は多く存在する。
 高齢者のとらえ方については、60歳以上を対象とした内閣府の「高齢者の日常生活に関する意識調査」では「70歳以上」が46.7%と最も多く「75歳以上」が19.7%となっている。若い年齢層でも「70歳以上」を「高齢者」と認識していることがわかる」。
 私は、きょう73歳の誕生日を迎えた。すでに高齢者です。足腰が曲がり、顔の皺も増えてきて、母の姿そっくりになった。寂しいことですが、元気でステキな?高齢者でいたいものです。今朝、子どもたちから綺麗な花束が届いた。嬉しいですね。                
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