October 5, 2015, 10:50 pm
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遠刈田こけし工人・六郷仁美(昭和37年生まれ)は、平成7年より、父・六郷満工人に描彩を習う。津軽の若手工人フェスティバルで実演デビュー。平成12年父が亡くなり、六郷満の一周忌を機に、作者名を「六郷仁美」に改名。意欲的に取り組んで人気がある。因みに、夫、遠刈田こけし工人・佐藤保裕工人に木地挽きを習った。
父・六郷満工人(昭和6年~平成12年)は、野球少年だった満が最初に入所した木工所では蔵王のブナ材でバットを挽いていた。昭和20年より我妻吉助が工場長として白石に来た時に、吉助のもとで新地式の技術を身につけた。長く新型木地を手掛けていたが、36年独立を機に伝統こけしに開眼して、松之進型復元に闘志を燃やし、松之進中心にめきめき腕をあげ受賞作も多くある。
やがて、愛娘・仁美工人が父の挑戦を引き継いだのです。
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October 6, 2015, 11:41 pm
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遠刈田系こけし工人・我妻敏工人(昭和25年生まれ)は、昭和42年仙台商業卒業後、日立製作所へ入社し、47年1月退社、以後、父・我妻吉助の指導を受けた。松之進の型を研究し、短期間に長足の進歩を示し、まさに仙台こけし界の大ホープとして、当時から期待された。「伝統こけしハンドブック」より。 父・我妻吉助工人(大正8年~平成26年、享年96歳)は、戦後、仙台木地業を支えた一人。遠刈田で昭和9年から佐藤好秋工人について6年間修業。終戦後仙台に移り独立開業、木地工場経営の傍ら多くの弟子を育てた。技術の研究に余念なく、松之進型も追求し、磨かれた木地の美しさには定評があった。ことに後進工人を多数指導した功績は大きい。吉助こけしは仙台土産として喜ばれ、平成26年96歳で亡くなるまで、一工人であり続けたのです。
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「こけし時代・特集遠刈田」より。
小笠原義雄こけし工人(昭和11年生まれ)は、昭和27年から遠刈田緑川木工所で5年間木地修業し、31年から職人として、遠刈田、白石など、35年に仙台に移住、40年に独立、当時は江戸独楽の製作の修事していた。その頃から、遠刈田系こけし工人・朝倉英次の指導を受けて伝統こけしを作り始めた。44年頃には、自分のこけしを発表し、間もなく、昭和39年結婚した奥様・信子工人(昭和10年生まれ)も描彩を始めるようになり、こけしを発表。おしどり工人として活躍していたが、現在、奥様は休業していると載っている。
小笠原義雄工人の、師匠・朝倉英次工人は、48年に若くして没したので、その後、約3年間、英次の未亡人・きぬ工人の木地を挽いてた。
※数年前、全日本こけしコンクールの招待工人として来られていたので、我が家に数本あります。今年5月にも写真の七寸五分のつばきこけしを求めました。すごく、模様が緻密で綺麗です。穏かなお人柄が良く出ていると思います。
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October 9, 2015, 12:09 am
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遠刈田こけし工人・佐藤正広(昭和13年生まれ)は、終戦後に樺太から引き上げ、昭和30年より我妻吉助について4年間木地を修業。その後2年間、日光で木地修業。その後仙台に帰って39年に独立。こけしを作る、木地、描彩ともに優秀。
次男の佐藤康広工人(昭和51年生まれ)は、平成22年より、師匠、父・佐藤正広について修業、こけし製作を始める。(2工人の写真)
「新しいことにチャレンジするのは勇気がいる。伝統こけしのよさを失わず、新しい風を吹き込んだのがこの『インディゴこけし』である。かねて伝統工芸に注目していたファッションブランド(BEAMS)のバイヤーと仙台の手仕事を紹介する「手とテ」が、佐藤康広工人に依頼したのが、この藍色こけしのはじまり。
こけしの産地である宮城県が藍染を伝統的に行っているということも制作の後押しとなり、理にかなった必然的に美しい作品になった。バリエーションも豊富で、伝統こけしファン以外の人々からの愛される、新たな試みの伝統こけしである。」”こけし時代・特集・遠刈田”より。
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October 9, 2015, 10:18 pm
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岩手県和賀郡湯田温泉に遠刈田系・小林定雄工人(昭和八年生まれ)の工房があります。(写真)
私は、平成22年5月、こけしコンクールに行った時、足をのばして湯田温泉を訪ねました。小林定雄工人との出会いは、昭和52年3月14日、NHKテレビ「新日本紀行、夢の中まで雪降るや」の番組で、岩手県湯田温泉の小林定雄工人が、作り出す、きりっとひきしまった顔、温かい微笑をたたえた丑蔵こけしが、私を完全に魅了してしまった。今でもときめきます。そのときから親しくしてもらっていたのです。
訪ねた時は、大病をした後だったので、こけし作りは、休んでいると言っていましたが、よくなられたのでね。奥様の輝子様に、食事を作ってもらっていただきました。湯田の特産物のお漬物も絶品でした。
写真のこけしは、当時、送っていただいた定雄こけしです。
※当時、姪御さんが四国松山市にお嫁入りしていると、確か言われていたと思うのですが、、、。
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October 10, 2015, 7:27 pm
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岩手県湯田のこけし工人・小林定雄工人の奥様、小林輝子さんのお話です。
実は、平成22年2月27日、愛媛新聞朝刊「季のうた」に、小林輝子作の俳句『雪降るは降るはと雛飾りけり』が載っていた。私はびっくりしたけど、嬉しくなって、お手紙と一緒にその朝刊をお送りしたのです。奥様のお便りによると、全国の知人の方から連絡があったという。そうです遠刈田系・小林定雄工人の奥様の小林輝子さんは、俳人、絵本作家でもあります。我が家にも写真の本「たくさんのふしぎ」「雪がとけたら」など送ってもらっています。その年の5月に訪ねたときには、冬になると、お家も工房もここまでと、窓の上を指差して「ここまで雪が積もるのよ」といわれた。俳句「雪降るは降るはと雛飾りけり」には雪深い岩手県の湯田温泉の景色、厳しさが良く見えますね。
俳人、絵本作家として、かなり有名な方。輝子さんが俳句の指導をした生徒さんが、俳句甲子園にて上位入賞したということもお聞きしました。
写真の輝子さんは「こけし時代」を参照したのですが、すごく綺麗な方です。
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October 12, 2015, 10:08 pm
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『こけし時代・特集遠刈田』より。
小林定雄工人の妻、輝子さんは、数多くの著作を世に出す、絵本作家。いずれも、ふる里湯田を舞台にした子どもの為の絵本である。そもそも。そのきっかけになったのは、今から40年程前、福音館書店前社長・時田史郎氏が現役編集者時代、近所に住む雪の研究家で世界的な第一人者である高橋喜平氏を訪ねた折、立ち寄ったのが輝子さんのお店だった。
鄙びた温泉街には旅館と土産屋以外には何もまく、編集者は輝子さんの店を喫茶店代わりに休憩し、様々な四方山話ををして、親交を深めた。その折、輝子さんの語るこけし工人の暮らしや、ふる里湯田の四季、孫との楽しい自然の中での暮らし、地域に伝わる民話等、その一つひとつが、すべての絵本になると感じ、執筆を勧めたのだった。文章は、もちろんすべて輝子さんによるものだが、それに加える絵描きや、イラストレーターを連れて、編集者は小林家に泊り込み、楽しい合宿さながら、編集作業を進めていったそうだ。写真は送っていただいた輝子さんのご本です。
※私が訪ねた時、湯田駅まで、お孫さんを迎えに行くと、ご自分で運転され、私も一緒に連れてドライブしてくれました。輝子さんのお人柄ですね。しかも、行動的で感動しました。
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October 14, 2015, 12:05 am
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小林定雄こけし工人と妻の輝子さんが住んでいる岩手県西和賀郡、湯田温泉郷は、豊な湯量と美しい自然で、温泉愛好家たちの間でも高い人気を集めている。和賀川の清流沿いに大小10軒近くの湯宿が並び、今も静かに山の湯治場の風情をよく残している。JR北上線「ほっとゆだ駅」前の広場に、一基の句碑が立っている。白い自然岩にはめ込まれた黒い石版に刻まれた一句がある。
※ 秋風や人あらはなる山の宿 正岡子規 (写真は句碑とゆだ駅)
明治26年の晩夏、満26歳の明治を代表する俳人・正岡子規が、岩手湯本温泉に逗留した際に読んだ一句です。その年の2月、文芸雑誌『日本』の文苑に俳句欄を設けた子規は「即物写生」をテーマに生き生きとした近代人の感性で俳句を甦らせようという「俳句革新運動」に熱中していた。そんな子規が手本とした与謝蕪村、そして松尾芭蕉。7月19日、意を決した子規は、芭蕉の『奥の細道』を自らも体験するべく東京から東北地方への旅へと出発したのです。
※輝子さんが駅まで連れて行ってくれたのも、子規の句碑があったからなのです。でも、正岡子規は、その頃は、まだお元気だったのですね。嬉しいですね。
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October 14, 2015, 7:04 pm
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伝統こけしには、それぞれ生まれ継承された土地ごとに、他所と違った特色を持っている。その特徴により区別して、11系統に分けられている。
ところが、遠刈田系こけし・小林定雄工人に関しては、「こけし辞典」「東北のこけし」の本では、遠刈田系ではなく、肘折系となっている。どうして、、、。定雄工人は、現在、丑蔵こけしの継承者なのです。
まず、佐藤丑蔵について調べみた。遠刈田こけしの第一人者・佐藤丑蔵工人(明治22年~昭和61年、享年97歳)は、その長い生涯は波乱万丈であると共に、自ら並びに遠刈田こけしの伝統に大きく影響した。その独創的なこけしは脅威という外はない。昭和54年、労働省から卓越技術者(現代の名工)として国家表彰を受けたのです。
小林定雄工人は、大正8年、遠刈田の工人、佐藤丑蔵氏を講師として、湯本に小林工場を開き、丑蔵から、小林善作、小林定雄と受けついで今日に至っている。結局、湯田こけしは、遠刈田系に分類されるようになったいうこいとです。
※こけしの系統には、師弟相伝の形で、その制作技術た形、模様などが一族や弟子に伝えられて、その土地、その家系に定着して、よそにない独特のものになっている。ちょっと解りにくいですね。
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October 15, 2015, 10:49 pm
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もし東北旅行に行って、旅先からた大切な人に便りを出すとしたら、こけしマニアならこけしの切手を貼って出したいものです。こけしは東北のの顔であり、東北で生まれ育った人にとっては懐かしいふる里を思い出す郷愁の”色と形”なのかも知れない。
こけしが始めて切手に登場したのは昭和30年のこと。翌昭和31年の年賀切手用図案として、宮城県の郷土玩具「こけし」と「えじこ」が選ばれた。
人形や郷土玩具が年賀切手に登場したのは昭和28年の「御所人形」が始めてで、翌29年は石川の「加賀八幡起き上り」、30年は福島の「三春駒」、31年の「こけし」の翌年は長崎の「鯨のだんじり」がそれぞれ選ばれており、年賀切手イコール郷土玩具という共通イメージはこの頃に端を発する。
昭和31年の新年は、年賀状に貼られた「こけし」が、春を待つ人々の心をなごませたに違いない。
このこけしは、遠刈田・佐藤好秋作。昭和15年前後のものと思われる。えじこのほうは好秋の作でもなければ遠刈田のものでもない。実は、弥治郎の新山栄五郎作で、やはり昭和10年代のものである。「こけし時代」より。
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October 16, 2015, 6:57 pm
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今朝の愛媛新聞「地軸」に嬉しいことが載っている。
それは、老化を抑え、糖尿病や肥満を改善し、がんのリスクを下げ、認知症やうつ病も妨げる、、、。そんな「魔法の薬」が、たった一つあるという。その薬とは「一日30分のウオーキング」。
世の中では「飲むだけでやせる」などの「楽な魔法」を信じがち。真の魔法の秘密は、やはり地道な努力。散歩は手軽で無料、何より楽しい。折しも今、世界運動週間(12日~20日)。2020年までは筋肉や骨など動きを担う器官の総称「運動器」の重要性を啓発する「運動器の10年」でもある。「適度な運動」で筋肉や運動機能を維持する大切さを思いつつ、歩く週間を身につけたい。
「歩く薬」は、心にも効く。もとより元気でなければ外出もしづらいが、新たな発見や人との交流がまた、心に養分をくれる。つらいときは皆、知らずうつむいて歩く。だから「上を向いて歩こう」は正しく心励ます魔法の言葉。
今日、松山市の城山公園で「リレーフオーライフ」が開かれる。それは、がん患者や家族、支援者がたすきをつなぎ、亡き人や闘病中の仲間を思いながら一歩一歩前へ進む。ひたすら歩くことで、和らぐ痛みもきっとある。
※、私は、毎朝、毎夕の散歩をしている。空の月や星も綺麗で和みます。ウオーキングがたった一つの「魔法の薬」とはすごく納得できますね。
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October 17, 2015, 8:03 pm
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今年、9月3日~5日、鳴子の全国こけし祭りに参加した時、高橋五郎氏が来られていた。一瞬、驚き、周りの方に聞いてみたら、高橋五郎氏だ、とのこと。以前、ブログにも書かせてもらったが、こけし界の第一人者なのです。今回「癒やしの微笑み」(写真)という本を出されたというので、求めて帰りました。楽しみです。
高橋五郎氏は、マンドリニストという音楽家で、同時に、こけし研究家であり、さらに東北屈指の郷土玩具蒐集家でもあります。演奏活動から、後進の指導と多忙の日々を送る中、東北地方の郷土玩具の蒐集と研究にも長年力を注がれてこられた。しかも、仙台市の閑静な住宅街に、蒐集した郷土玩具を陳列している「こけし洞」をかまえ、貴重なコレクションの公開している。そして、数多くのこけしの研究書の刊行、こけしコンクールの審査等々、数多くの活動を通してこけしの啓蒙、発展に尽くされている。
なお、高橋五郎氏は、大学生の頃、宮城県の白石女子高に音楽の指導に行き、御礼に遠刈田の丑蔵、弥治郎系の久治こけしを頂いたのが、こけしとの出会いだったという。モナリザみたいに、どこから見ても自分を見ているような不思議な感じを受けたという。
※きっかけが「こけし」だったとは、さすがこけしの里、東北ですね。
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October 18, 2015, 6:24 pm
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こけしは昔から、東北特有の子どもたちの手遊び人形として親しまれてきた。このようなおもちゃのこけしにも、時代による消長がある。
大正時代になると、ブリキやセルロイド製の機能性に富み、しかも安価なおもちゃの出現により、製作に手間のかかる木地玩具類は需要がなくなっていく。こけしも衰微し、消滅の危機にひんしていた。
時代の流れ、生活文化の変遷によって、おもちゃとしての役割を終えつつあったこけしを、奇跡的な復活へ導くきっかけとなったのが、昭和3年(1928年)に発行された日本で最初のこけし専門書、天江富弥著『こけし這子(ほうこ)の話』である。同書の出版により、東北に限られた地方のおもちゃにすぎなかったこけしは、全国的に知られるようになった。
同署の出版により、東北に限られた地方のおもちゃにすぎなかったこけしは、全国的に知られるようになった。
数多くのこけし愛好家が誕生し、熱心な追求、調査を行う研究家も続出した。こけし関連誌が相次いで発行され、各地で頒布会が開かれるなど、こけし収集は熱気を増していく。こけしブームを引き起こした。「癒やしの微笑み」より。
『こけし這子の話』は、こけしにとって起死回生の書となったである。この時点で、子どものおもちゃから大人の鑑賞の対象へと転じていったのです。
※私の生まれる前ですね。私の子供の頃は、セルロイドのキュウピーちゃんの着せ替えで楽しんでいましたね。
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October 19, 2015, 11:28 pm
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昭和3年、日本で始めてのこけし専門書『こけし這子の話』(天江富弥著)が出版された後、こけしの一大ブームが起きた。戦前から現在まで、多くの研究家が現れ、おびただしい関連書が出版されてきた。先人たちは、当時休廃業だった木地屋たちを各地に探し、こけし製作を復活させたり、木地産業の盛んな地のこけし製作を勧めたりし、著者自身の本や、著者たちが発行する愛光会誌で発表、紹介してきたのです。
このような流れの中、昭和46年、東京堂出版から『こけし辞典』(鹿間時夫監修)が刊行された。570ページから成る大冊で当時の第一線の研究者たちが執筆者として名を連ね、まとめたもの。過去の研究に新たな調査、考察が加えられ、内容的にも充実している。こけし辞典は、その研究の成果をまとめたこけし研究の集大成と言える。
写真の「こけし辞典」は、昭和52年,NHKテレビ・新日本紀行で、小林定雄こけし工人の姿の映像を見てから、当時、松山の紀伊国屋書店で求めたものです。高価な辞典で大変でしたが、伝統こけしの事、こけし工人の事など、すべて詳しくまとめられているので、よく解ります。
監修の鹿間時夫氏は、横浜市で、鹿間コレクションとして有名です。
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October 21, 2015, 12:22 am
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四国を一周ぐるりと囲むように点在する弘法大師空海ゆかりの八十八の札所寺院。今年は、空海八十八ヶ所霊場開創1200年になる記念の年です。
映画は、愛媛県今治市にある第57番札所・栄福寺の住職・白川蜜成氏が、書かれた実話エピソードを映画化したもの。
住職だった祖父の死をきっかけに書店員の仕事を辞め、自らも24歳で住職になった白川光円。 始めて知る住職の世界は奥深く、毎日が驚きの連続、光円住職は、檀家の人たちとの関係に悩み、冠婚葬祭で人々の人生の節目を見守り、様々な経験を積むことで成長していく。住職は、ボクは坊さん、毎日変ったことするのではなく、毎日、同じことを繰り返しているだけ。いい事があれば、ただ感謝するだけだと締めくくっている。
※「ボクは坊さん」の映画を見てきました。四国今治近辺で、ロケなどして話題になっていました。全国ロードショウは、10月24日から、四国エリアは、先行ロードショウということです。
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October 21, 2015, 7:18 pm
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先人たちは、当時休廃業中だった木地屋たちを各地に探し、こけし製作を復活させたり、木地産業の盛んな地の工人にこけし製作を勧めたりし、著者自身の本や、著者たちが発行する愛好会誌で発表、紹介してきた。その中の一つ「東京こけし友の会」の月刊誌「こけし手帖」がある。
毎月届く「こけし手帖」は、昭和28年8月に創立、一昨年の平成25年8月、紀年号として届いた。人間で言うと満60歳、還暦を迎えたのです。今月届いたこけし手帖は(657号)と長く続いています。
創立時、こけし蒐集・啓蒙する会員に、伝統こけしの系統をまとめ、伝承の大切さを教えてくださる先輩方がいたからこそ、長く続いているのでしょう。
私が「こけし手帖」に出会ったのは、東京こけし友の会に入会した、昭和55年1月からです。小さな冊子だけど、毎月開催している例会、こけしの頒布、こけし収集の解説あるいは研究、産地の工人の消息など、こけしに関する色々な情報が得られるのです。
※私は、その当時、目からうろこではないけれど、単なるこけし大好きでは、恥ずかしいと思ったのです。
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October 22, 2015, 10:09 pm
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こけしを作る人たちを、現在は「こけし工人」と呼ぶことが多い。
時代や地方によって呼び名はさまざまであるが、ロクロを回して器物を製作する職人は木地師、ロクロ師、木地屋などと称される。東北では木地屋が一般的で、その業は木地業という。
膨大な数に驚くが造形的にも美しく、当時の木地師の技術の高さがよく分かる。やがて、時代とともに木地師たちは良材を求めて各地に移動分散し、庶民の需要にも応えるようになる。宮城県内にも比較的早い時期(8,9世紀ごろ)にロクロ、あるいはロクロ製品が伝わったようで、30年ほど前、名取市の遺跡から独楽のような挽き物が発掘され、話題になったのです。
木地師の挽き出す木製の椀、盆、鉢類は生活必需品となり、木地業は幕末期、北海道を除く日本全土に伝播していたのです。しかしながら、東北以外の地では、どういうわけか、こけしのようなロクロを使って人形が作られることはなかった。
「こけし」は言ってみれば、ロクロ文化伝播の「終焉の地」で花開いた、紛れもない東北独自の人形なのである。高橋五郎著「癒やしの微笑み」より。
※数年前、土湯にて自分用の汁椀を求めて帰り、毎日使っている。
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October 24, 2015, 5:37 am
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ロシアの木地玩具、マトリョーシカ人形。
マトリョーシカという名称は、ロシア女性の名前からきているといわれる。 昭和48年頃、こけし研究家の高橋五郎氏が、ロシアを旅したとき、モスクワで、こけしのような木地玩具や入れ子のマトリョーシカを昔から作っているところがあると聞き訪ねたという。当時、マトリョーシカの存在は知っていたが、ロシアの木地玩具については、全く知らなかったのです。郊外の小さな博物館を訪ねると、そこには、各種のマトリョーシカや木地玩具の類が多数展示されていて、同時に日本で作られた入れ子の「七福神」も展示されていた。
訳を聞けば、マトリョーシカは、この七福神がヒントになり、お手本となって、創作されたという。マトリョーシカは、ロシア固有の玩具人形だと思っていたが、そのルーツが日本の七福神であると聞き、初めて知ったのです。それは、明治23年頃、ロシアの宣教師によって日本から七福神が持ち帰られた経緯が紹介されていたのです。
※私は聞いたことがあります。愛媛県の松山捕虜収容所のロシア兵が、愛媛県の郷土玩具「姫だるま」を真似て作ったものだと。我が家の近くに、かなり多くのロシア人墓地があります。今も大切に守っています。
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October 24, 2015, 11:46 pm
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しまなみ海道の観光スポット大三島大山祇神社。三島神社の総本社であり、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。
境内には、国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」がある。広い参道の中に、樹齢2600年、樹高15.6m、幹周11m、神社最大のクスノキ(写真)、巨大な根元はすでに抜け殻の様に表皮だけで、生をつないでいるように見える、しかも、境内には、約200本のクスノキが生い茂っているが、その中の38本が日本最古の楠群として、国の天然記念物に指定されている。
主な神事に、島内から選ばれた女子児童16人が、扮する抜穂乙女が初穂を刈り取り、豊作に感謝する行事や、見えない精霊と三番勝負を繰り広げる奉納一人相撲など愛媛県では、すごく有名な行事です。
いまは、行楽シーズン真っ只中、観光バスや、県外ナンバーの車が多く来られて賑わっていた。帰り道、しまなみ海道、今治から一つ目の大島の道の駅・いきいき館に立ち寄る。ここにも観光バスや県外ナンバーの車が止っている。直ぐ前が海、サザエやホタテなどのバーキュウの匂いがいっぱい。私たちは、海鮮どん(写真)を頂いて帰った。
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October 25, 2015, 9:14 pm
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現在、こけしは東北各地の温泉場などで作られている。その中で、幕末から制作されていたと伝わる産地は、福島市の土湯温泉、宮城県では白石市の弥治郎、蔵王町の遠刈田温泉、大崎市の鳴子温泉があり、研究家の間で、こけしの「第一次発祥地」と称されていた。この中で、蔵王東麓の遠刈田は、木地業の歴史も古く、遠刈田こそこけしの根源地ではないかと考えられてきた。真相かどうかは別として、遠刈田や鳴子は、幕末からこけしが生産されていたことは確かなようである。
遠刈田は、弥治郎や山形市の蔵王のこけし誕生に関与した。鳴子は岩手県内に系統産地を派出させ、秋田県の木地山系、さらに青森県の津軽系の誕生に大きな影響を与えた。そして、遠刈田と鳴子が融合して、山形県最上地方の肘折系が成立するのである。こうした経緯を見ると、宮城県はこけしの中心産地で、こけし発生の鍵が秘められているようだ。
こけし用途は元来、子どもに手遊び人形という性格から、古くなれば処分される。そのため明治期のものでも残るケースはまれで、創生期のこけしがどんなものであったか、また根源地がどこかは謎であった。
ところが近年になって、従来、通説とされていたものを覆す古文書や古い時代のこけしなど、新たな資料が相次いで発見されている。それらはすべて、宮城県内から見つかっている。これら合わせて考察すると、宮城県がこけし発祥の地であることは確かであろう。高橋五郎著「癒やしの微笑み」より。
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