September 30, 2016, 8:31 pm
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「こけしはいつ頃から作られているの?」
こけしは、おそらく江戸末期の文化・文政期(1804~1830)には作られていただろうといわれています。
この頃、東北各地にたくさんある温泉地に多くの人々が湯治に訪れるようになった。一日や二日の短い旅ではなく、疲れをいやし、病気を治すために一ヵ月、二ヵ月という長い時をそこで過ごしていった。
温泉地にたくさんの人々がやってきて、賑わいを見せるようになると、おそらくお土産品が生み出されて、こけしもその一つとなったのでだろうと思われる。湯治に連れてきた子どもに買ってあげたり、また家で待つ子ども達のお土産に買い求められたそうです。(※大人は肩たたきのかわりに、こけしでトントンとたたいたというエピソードも残っています)
このように、温泉場で長い時を過ごす人々と木地師との交流の中で、こけしは広く知れわたっていきました。
こけしの11系統の分類は、あくまでもこけし鑑賞の一つの方法です。それぞれ自分流に考えて、わかってくるとこけしの魅力が深まります。
※ 眉をひくこけし工人筆冴えて 愚作
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今日は「とう(10)ふ(2)」の語呂合わせ「豆腐の日」。
奈良時代に遣唐使によって伝わったとされる。当初は寺院で作られ、精進料理として僧侶が食べていた。庶民に広まったのは江戸時代。生で良し、煮て良し、あえて良しで評判となり、料理本「豆腐百珍」は爆発的な人気となった。
今、スーパーの店頭にたくさんの豆腐が並ぶ。形も値段もさまざまだが、「国産大豆使用」とパッケージに書かれた文字に目が行く。農林水産省によると、豆腐のうち国産を使うのは4分の1程度。国産とアピールしたくなるのも分かる。
大豆は割安な中国や米国産に押され作付面積が減少。昨年の自給率は6%しかない。さらに今年は、最大産地の北海道に台風が相次ぎ上陸。濁流にのみ込まれた畑もあり、食卓への影響が心配です。
19世紀末、日本の大豆はドイツに渡り「畑の肉」と呼ばれた。今夜は湯豆腐でもつつきながら、大地の恵みに感謝し、産地の再生を願いたい。今日朝刊の愛媛新聞「地軸」より。
※ 先日、夕方のテレビで、南予地方の90歳のおばぁちゃんが、昔ながらの豆腐を、50年つくり続けていると放映された。懐かしくて見入ってしまったが、訪ねて食べてみたいと思った。どんな豆腐がおいしいのでしょうか。安くて小さいので毎日食べているが、なかなかおいしい豆腐に出会っていないのです。
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October 4, 2016, 12:33 am
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数年前、ちょっと不安なことがあってから、脳のMRIの検査をしている。
「MRI」は、磁気共鳴を利用した画像摘出法。または、この画像を利用した診断法。放射線被ばくがなく、生体に害を与えずにX線と並んで優れたCT(コンピュータ断層撮影)画像が得られる。軟らかい組織も描出できる利点がある。前面、両横、後ろ面が映し出されるのです。すごい!と思う。
検査は、15分ほど耳栓をして共鳴音がうるさいが、静かに寝ているだけで画像(私の脳画像)が出来上がる。やっぱりすごいと思う!。
映像では、毎回「左頸部内頸動脈狭窄~閉塞」の映像が映されているが、これは、生まれつきか、この状態の血流の人はよく見られるという。私の場合は、右側や後ろ側よりの血流は保たれてバランスが取れているので脳梗塞には陥っていない。ということです。
10月は、私の誕生月、とうとう74歳になる。カルテをみても、あーぁ、親の年になったのです。弱気なことは言いたくないが、親友は、スマホを使いこなし「Hちゃん!ガラケーでは、90歳まで生きられんよー!」はっぱをかける。いつの間にか「人生80歳」ではなくなったのですね。頑張りたいものです。
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October 5, 2016, 12:01 am
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NHK早朝ラジオで「今日は何の日」という番組がある。私は毎朝聞いている。
今日10月5日は「1931年の今日、アメリカの長距離機ミス・ビードル号が初の大平洋無着陸横断飛行に成功。1964年の今日、国鉄と日本急行バスにより名神ハイウエイバスが開業、日本初の高速バス。1969年の今日、テレビアニメ『サザエさん』(フジテレビ系)放送開始。1980年の今日、山口百恵の引退コンサートが日本武道館で行われた。1998年の今日、NHK番組『おじゃる丸』が放送開始」など。
1972年の今日、私の誕生日。今朝、きれいなお花が届いた。みんなに感謝ですね。親の歳を越して、母親と同じことをしていておかしくなることがある。まだまだ元気でいたいものです。
そして今日は、松山の秋祭りの宵祭り、子供神輿が各家庭をまわり楽しみます。でも、松山祭りは、静かです。私の生まれたH地区は、神輿とだんじりが競い、鐘と太鼓の鳴らし合いでにぎやかです。
そして、今日は心配された「台風18号」は、日本海に抜ける様子なので、あまり風もなく青空が広がり気温31度もあり、真夏のようです。これからの日本海、東北地方の方は心配ですね。
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October 7, 2016, 10:10 pm
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「古鳴子」こけしとは、、、、
昭和27年深沢要氏(こけし収集家・深沢コレクション)により、提唱された語(追求)「私の鳴子追求を鼓舞するのは古鳴子である」と記している。明確な定義は示されていない。年代の古いまた古風の鳴子こけしという意味であろう。古鳴子を通じるものは巧まざる素朴さと甘くさびた情味であり、深い郷愁の世界にさそわずにおかないのです。
鈴木庸吉の昭和14年作(左19cm)。彼は明治31年~42年まで高野幸八につき修業、35年、一時肘折で働き、また鉛・台・大鰐・仙台等を遍歴して昭和14年、58歳で以降七ヵ宿滑津の五十嵐工場にいた。20年、66歳で没。幸八の形を伝承したが描彩は稚拙素朴であった。
高野幸八作(左から2番目の10.5僂19僉砲蓮大沼又五郎につき修業。玩具作りの名人で、高幸商店を経営、大正9年、52歳で没した。大正2~3年鰻湯へ行った山三の左野健吉氏が作らせたのが偶然残っている。
大沼けさの作(右側19.5僉法B臂造韻気里蓮⇒Ρ厂腓虜福¬声37年、54歳で没したので、その遺品がが残るのは奇跡的なものである。胴細長く肩低く幸八型に似ないでもないのは、両者とも大沼又五郎の流れを汲むからかもしれない。『こけし 美と系譜』より。
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「古品こけし」 真黒になってしまった古品の年代推定は至難である。
左端は土湯から渡辺忠蔵が見つけてくれた太治郎古品で目鼻はかすかに見える。おそらく明治のもので現存太治郎中最古品であろう。幸太のは大正期か。高亀のは武蔵が以前佐竹辰吉かとしたことがあるが、あるいは武蔵自身の古いものか、あるいは亀三郎のものかもしれない。大体このような黒光りするこけしは、こけしが子供の伴侶であった時代に子供の相手を務め果たしたもので、収集家以前の物である。太治郎のものもその点反って珍品であるかもしれない。
※ 写真の左より、「斉藤太治郎 23.5僉廖嶌監9太 20.3僉廖岷鶸田古品18僉廖崑王高湯古品 23.3僉廖峭睫邱八(?)21僉廖峭盖 18.5僉廖崙酩系 11僉廖悗海韻 美と系譜』より。
こけしを作った環境が違うという意味で大正初年をあげているが、佐藤泰平氏のこけしルネッサンスという意味では大正末、昭和初のほうがこけし界として意味が深い。このことは鳴子だけの問題ではない。
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October 12, 2016, 12:45 am
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『こけし 美と系譜』より。
「京都・紫野の大徳寺高桐院の松向軒は細川三斎消息の軸をかけ、花釘の竹花入(大心和尚作)に大山蓮の白花をいけた中に置く一本のこけしといえば、やはり胞吉(えなきち)こけしにしぼられてしまう。茶をたて静思の時をすごす相手は寂然の胞吉こけしでこそ、恰好がつくのであった。こけしは一本に始まり一本に終るのであろうか。」以上。写真の胞吉こけしは17僂里海韻靴任后
※ 高橋胞吉工人は文久元年、仙台に生まれる。美しいこけしの「胞吉こけし」で有名で当時の仙台こけしやは真っ赤で染まったという。現在では、高橋胞吉こけしの研究家として、胞吉型の工人として知られる鈴木清工人の長男・鈴木昭二工人(昭和2年~平成27年)、昭二の長男・鈴木明工人(昭和35年生まれ)が今も、胞吉型の伝統を守って、美しいこけしを作っている。明工人は、胞吉型工人として優秀作を作りつづけ、全日本こけしコンクールで総理大臣賞を受けた。
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October 12, 2016, 8:29 pm
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今年9月、仙台 カメイ美術館に立ち寄った時に、新しい伝統『木形子可』展覧会図録を求めた。
それによると、ロシアの「マトリョ-シカ」のルーツは日本の「こけし」でした。明治40年代、七福神の組子式こけしが海を渡り、ロシアで農民の少女に姿を変え、マトリョーシカになったと言われております。こけしの歴史は約200年、マトリョーシカは海を渡って120年、発祥は、共に子どものおもちゃでした。この間、それを与えた大人たちの中に、素朴であたたかみのあるのある美を発見した人たちがいて、こけしもマトリョーシカ、それぞれの国で、愛されてきました。しかし不思議なことに、この120年間、日露両国の木形子文化の交流は一切ありませんでした。それどころかマトリョーシカのルーツが日本であることすらも、あまり知られていません。
そこで、隣国同士、伝統を愛する文化交流をしたいと思いついたのが「木形子可展覧会」です。
※ 写真は、数年前、作並温泉の平賀輝幸工人の工房を訪ねた時に求めたマトリョーシカこけしです、。
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October 14, 2016, 10:19 pm
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「こけしとマトリョーシカのルーツが同じなのですから、当然のことですが、この二つには様々な共通点があります。道具は同じ様なろくろを使い、日本はミズキやイタヤカエデ、ロシアは白樺や菩提樹の木材をくせかんなで削り出し、その土地の気候風土に育まれ、独自の形や染料による描彩が施されています。
又、伝統こけしが、東北六県に十一系統ある様に、ロシアの産地も又、産地が六系統あり、こけしに新型こけしがある様に、マトリョーシカにも伝統的産地の他に、アーティスト系と言われる作家たちが独自に創意工夫して作ったもの、観光地や空港の売店で売られる、スーベニイと言われるお土産マトリョーシカがあります。
しかし残念なことにルーツである本国日本では、入れ子式の木地人形や、子持ちや孫持ちこけしを作る工人さんが、段々少なくなってきました。私共は伝統こけし界活性化の為、又、伝承技術発展の為、ひいては隣国ロシアとの伝統文化交流の為にも、この様な試みをさせていただいた次第です。」『新しい伝統としての木形子可展覧会 沼田元気 』より。
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October 15, 2016, 6:13 pm
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『新しい伝統として木形子可(コケシーカ)展覧会 沼田元気』より。
こけしやマトリョーシカに魅力を感じるのは理屈ではなく、小さきものや、美しいものを、愛してやまない感情や魅力が、元々人間には備わっているものなのです。しかし、段々大人になると、身辺にある美しいものに気付かなかったり、小さいものを可愛いと思わなくなってしまうばかりか、それらをとるに足らないものと思う様になり、日々の暮らしや、目の前にある忙しさに忙殺されてしまいがちです。
そこで人は、大人になってからもう一度、子共の頃起こった奇跡を思い出す為、こけしやマトリョーシカに出会いたいと思うのかもしれません。ことにマトリョーシカは、中からたくさん人形たちが出てくるということもあって、家族を表現しており、マトリョーシカで遊んだ子どもは、幸せな家庭が作れると言われています。
一方こけしも、お祝いの人形とされ、誕生やひな祭りはもちろんこと、何か自分の記念の為のスーベニィルとして、買い求めていく人もいる様です。
どうか、この人形たちに込められた素敵な思いを、伝承していけますように。以上。
※ よく解りますね。
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October 16, 2016, 11:46 pm
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「七福神」と「マトリョーシカ」高橋五郎 著
1973年3月、私はモスクワの駅に近いホテルにいた。
長年のの夢だったマンドリンの勉強のためイタリアに向う途中であった。諸般の事情でシベリア鉄道を利用、およそ10日間の長旅の末、辿り着いたのである。現在のロシアはその頃、旧ソビエト連邦時代で、世界の情勢は対立する東西の緊迫感が強く感じられる状況であった。旅行者にも何かと制限があり不安を抱いたが、持ち前の好奇心で、街に出て、ビタミン補給のためマーケットを探し果物を求めた。しかし、言葉がまったくわからず、しかも店の販売システムも日本と違って困惑していたら、偶然流暢な日本語で声を掛けてきたロシアの老婦人と出会い、親切にしてもらい、大いに助かった。聞けば彼女は昭和の初めの頃、日本に居住していたという。それが縁で懐かしい日本の話をもっと聞きたいということで、彼女の家に招かれ、お茶をごちそうになった。私は御礼にと旅行中に読み終えた本や、お土産用にと用意をしていたこけしなどを差し上げ、私の趣味のこけしや木地玩具の話をした。すると彼女はこのモスクワにもマトリョーシカや木地玩具を昔から作っているところがあるという。当時、マトリョーシカの存在は知っていたが、ロシアの木地玩具についてまったく無知だったので、どんなものを作っているのか気になったので、掘り下げて訪ねたところ、明日、時間があれば連れて行ってくれるという。 つづく。
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October 17, 2016, 10:25 pm
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翌日、郊外の小さな博物館(展示館)の様なところに案内してくれた。そこに、日本でつくられた入れ子の七福神が展示されていて、マトリョーシカはその七福神をお手本にして創始されたとの説明を受け、マトリョーシカのルーツが日本の七福神だったと初めて知り、驚いた。
そのマトリョーシカも、創始以来100年以上経過してロシアを代表する伝統木地玩具として世界中に知られるに至っている。この間、マトリョーシカと日本のこけしとの交流はなかったのであるが、日本においては、木地玩具の先進地である小田原や箱根の製品が東北にもどんどん流入し、東北の木地屋たちはそれを手本にしながら土地風に改良し、大正期には100種を超える木地玩具がつくられ、入れ子の玩具も、弁慶などとても手の込んだものも作られたのである。しかしながら、明治末頃から外国からブリキやセルロイド製で、機能性に優れた玩具類が導入され、東北にも流行してくると、当然ながら次第に手間のかかる木地玩具は採算が合わなくなり、次々と姿を消してしまったのである。戦後になり、伝統こけしのブームが再来するが、、、、、つづく。『七福神とマトリョウシカ』高橋五郎著 より。
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October 18, 2016, 8:04 pm
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「七福神」と「マトリョーシカ」 高橋五郎著 より。
戦後になり、伝統こけしのブームが再来するが、生活様式の変化も伴って、以前、盆・椀類などの生活用品や玩具を製作した殆どの木地屋はこけし専業となり、わずかにつくられる木地玩具も独楽や数種類のものを残すぐらいとなってしまった。当時、かつて腕に覚えのあった木地屋は、「木地屋の技術の本領は木を削ってこそにあり、現在の様にこけしなど表面しか挽けないというのは木地屋とは言えない」と木地技術の衰退を憂い、淋しそうに昔を振り返っていた。
あれほど隆盛を誇ったこけしブームが去って久しいが、近年、現在の生活スタイルに沿った新しい感覚でこけしを愛好する人たちが登場し、こけし界に明るい兆しが見え始めた。つづく。
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October 19, 2016, 9:49 pm
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「七福神」と「マトリョーシカ」高橋五郎著より。
、、、、こうした動きの中で、※沼田さんがプロデュースのマトリョーシカの素地にこけしの描彩をコラボレートした「コケーシカ」という新たな木地人形が考案され製品化され、それが少しずつ浸透し、東北各地のこけし工人も多く製作に参加し始めている。多くの人たちも興味を持たれ、関連してこけしを集め出している人が増加の傾向にあるという。
時代の波、生活様式が多様化するにつれ、東北のこけし産業が低迷沈下して久しいが、この様な新しい試みがきっかけとなって、少しでも明るさを取り戻すことを期待したいと思う。そして願わくばこけし工人諸氏も木地の原点に戻って、マトリョーシカの原型となった七福神の様な刳り物の合せ物玩具製作の技術を習得するなど、技術の向上をはかり、さらに新たな製品開発に挑戦して、こけし産業の復興に力を注いでいただきたいと思う。おわり。
※ 沼田元気氏 日本の詩人。写真家。伝統こけしとマトリョーシカの専門店「コケーシカ」。「こけし時代」責任編集者。専門書多数の著書あり。
※ 高橋五郎氏 音楽家。こけし研究家。こけし専門書多数の著書あり。
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October 21, 2016, 5:01 am
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ホトトギス(杜鵑草)は、ゆり科の多年草。山地・岳麓に多い。茎は高さ30~70センチ。葉は互生して、笹の葉に似て先端が少しまがる。茎、葉とも毛が多い。秋、百合の花を小さくしたような花がひらき、内面に濃い紅紫の斑点が密にある。これが時鳥の胸毛の斑点にているので、この名がつけられた。
お花屋さんの店頭で見つけたので、一鉢買い求めました。(写真)
※ 時鳥(ほととぎす)・杜鵑・子規・不如帰・・・・は、杜鵑かの鳥で、四月から五月中旬に南方から渡ってきて、晩夏に南へ帰ってゆく渡り鳥である。鳩より少し小さいが尾羽が長いのが特徴であり、背色は暗灰青色で、腹は白地に鷹斑のの横島がある。飛ぶ姿がいわゆる杜鵑形で鷹によく似た姿にみえる。
鳴き声は「テッペンカケタカ」とか「特許許可局」と聞こえる。岳麓や高原で多く聞かれ、昼も夜も良く鳴く。近年、人里近くまで来て鳴くようになり、人家の庭木にも来て高らかに鳴くようになった。なつの代表的な鳴鳥である。
※ 俳句の盛んな松山では、俳句の結社「ホトトギス」では、多くの人たちが俳句を学んでいる。
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October 25, 2016, 10:51 pm
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雛人形に雛道具
衣装人形、御所人形、加茂人形、嵯峨人形
からくり人形、文楽人形、五月人形、伏見人形や奈良人形の古品もひとつふたつ加えて古典人形と呼んでいる。 人形には、どのみち名前はありません。たとえば仮の住まいには仮の名前。もともとこの世が人形にとっては仮の宿りでありましょう。異次元に命をもつ。
この小さな者たちのひとりひとり、おっとりとしているかと思えば、愛くるしく、
おどけた所作のなかにも哀愁が漂う。
少し不気味な髪のほつれ衣装の乱れ、少女のひとり語りを聞いていた目が、いまは時のきしみを聞いています。
一般に人形は、女性にとっては、心の故郷でもありますね。抱いて可愛がるだけではすまされず、生きた人形のように動かしてみようと胴や手を動かし、着せ替えたり、お互いに芝居をさせながら遊びの友としたものです。人形は楽しかった思い出でもあります。写真は「御所人形」です。立派ですね。
※ この4.5日、わがパソコンは、電源付けると「windowの準備をしています。更新のプログラムを構成しています。コンピューターの電源を切らないで下さい。この操作は、なんども続けられます」と出てきて時間がかかる様になりました。どうしたものか、、、、、、。
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October 26, 2016, 10:04 pm
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雛人形は、一見みな同じように見えるが、よくよく見ると、お顔も衣装もそれぞれ違っている。雛人形にかぎらず、古い人形はひとつひとつが手作りで、同じ時代、同じ系統の作者のものでも、少しずつ、異なるところが出てくるわけです。形の決まっている雛人形の場合、似ている点が目につきがちですが、頭の形、衣装のスタイルや模様、冠の類などつぶさに見ていくと、形式の制約があるだけに雛それぞれの表情や個性が浮かび上がってきて、おもしろいものです。
いろいろな雛人形は、昔の大名家や旧家の所蔵品が大部分ですが、これらを特に優れた雛としているわけではありません。美術工芸的な意味での優劣はともかく、ある人が大切にしていた雛なら、それが安価な土雛であろうと、細工の粋をこらした豪華な雛であろうと、その人にとって最高の雛なのです。ただこれらの雛で、往時の姫君たちの思いを偲んでいただければ、と思います。写真は「江戸時代の古今雛」です。読売新聞社発行『日本の人形』より。
※ 私のお雛様の思い出は大きい。もう70年以上になりますが、毎年、4月30日になると、六畳の間の部屋に天井まで届きそうな雛壇を組み立て、御殿、お内裏様、五人、三人官女、お道具、雪洞、、、等、母が飾り付けていきます。そのお雛様も少しづつ海に流していったのです。懐かしいですね。
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October 27, 2016, 9:37 pm
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江戸時代の古い人形は、どんな人形も、みないたみやすくなっていますが、とりわけ衣裳人形の衣裳がいたみやすいと言えましょう。年々、数多くの衣裳人形が失われて、よいものを観賞する機会が少なくなりました。
数ある古典人形の中で、もっとも“女”を写しているのが、この衣裳人形ではないでしょうか。髪の感じ、頭の美しさなどに、往時の女性をしのばせるものが、まま感じとれます。人形の“女”が失われて行きます。写真は「参内人形 江戸時代 光照院蔵」『日本の人形』より。
※ 衣裳人形とは、衣裳をつけた人形。主に江戸時代に作られたもので、俳優・遊女などをかたどった。押し絵のものと木彫りの人形に衣装を着せたものとがある。浮世人形。着付け人形など。
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November 1, 2016, 1:15 am
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御所人形ほど、人形の姿と名前がぴったりしている人形も珍しいと思います。翳りのない男の児の可愛らしさ、おかしみといったものを、ものの見事にとらえたこのような人形、誰がはじめに作ったのでしょうか。男の児でも、これほどの輝かしいさをそろえていれば、自然に連想するのは高貴な身分、富裕な世界であります。御所人形という言葉がいかにもふさわしいのも、そのためかもしれません。日本人形の歴史が生んだ傑作と言えます。江戸時代・大阪市立博物館蔵。読売新聞社『日本の人形』より。
※ 御所人形とは、江戸時代の中期から、京都で作られた童形の人形、木彫の母型の上に胡粉を厚く塗り重ねて作る。裸のものが多いが、着物を着せたものもある。「御所人形」の名称は、初め、御所に贈り物をした諸大名、、、、 。
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November 1, 2016, 9:30 pm
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柳材を使った木彫の素地に、金襴や縮緬をきちっと木目込んだ加茂人形。骨格を感じさせる木彫のこよなく深い味わいもさることながら、こんな小さな人形を、彫りも彫ったり、衣裳を着せも着せたり、日本人の指先の器用さをまざまざと見せつけられる人形です。
また、他の古い人形とも違ったその表情、風貌の特異さも見のがせません。古式の笑い、という言葉がありますが、加茂人形には、日本人のなかに根深く流れている表情や動作の、ひとつの様式が表れているように思われます。『日本の人形』参照。
木彫に木目込という技法の特色が、そういう表情の様式と見事に出会っている、とも言えるでしょう。木の味と布の味、加茂人形はこの二つの味の交換です。
※ 加茂人形「公家遠行」が加茂人形の歴史については、まだまだ解明されていない分部がおおくあります。一般には江戸時代の元文 4年(1739)に加茂川の柳の木で祭祀に使う柳筥(やなぎはこ)を作っていた加茂神社の雑掌の高橋忠重がその余材を、、、、。
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