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Channel: こけしおばちゃん
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「ひとりごと」

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 「初めてこけしに出会い、1本が2本にと徐々にエスカレートしてゆき、目にするもの、手にするもの、すべてが欲しくなったあのころ、せっかく手にいれたこけしに満足していると、かたわらで”昔のこけしは良かった、、、”と戦前のこけしを知っている人たちから言われて、しらけたことを思いだす。そのような経験をした自分が、こんどは言われる立場から、言う立場にかわっているのである。真に身勝手なことである。中略。
 こけしを評価するときによく使われる”ソボク”さがある。しかし、現在つくられているこけしには、この表現は不適当となりつつある。素朴とは、加工せず原始のままであること。偽り飾らないこと。いま一つのソボクは、粗末で飾り気のないこと。こけし評価の多面化が今日要求されている。こけし愛好家の先輩たちの努力のおかげで、こけしの楽しみ方がより増幅されてきた。これからは、若い工人達と若い愛好家の熱意によって、こけしの楽しみはさらに増えていくと期待している。」
 ※ この「ひとりごと」は、昭和56年2月「こけし手帖」に投稿されたこけし愛好家の石井荘男氏のものです。もう30年以上前のことなのに、最近、私もこの様な気持ちで、こけしまつりに参加しています。私が思っていることと同じ気持ちです。戦前のこけしは、我が家にはあまり多くはないけれど、こけし工人さんも、息子、孫、弟子の時代になっています。工人さんは伝統を継ぎつつ、新しいこけしに工夫を凝らして努力しているのですね。
 (写真は、我が家の蔵王系・阿部常吉工人(明治37年~平成3年、享年87歳)のこけしです。)

こけしと俳句

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 俳句とは、季語を入れた 五七五の17音の短い詩です。季題によって自然の風物、その日の人事など詠むことができる。私は、日本の美しい季語が大好きで俳句に携わっている。
 「こけし手帖」56年5月号に、宮城県白石市在住・ホトトギス同人・鈴木貞二氏の記載文で、俳句の句があった。 
 それは「西田峯吉先生より菅野新一氏宛のおハガキで『2月22日の朝日俳壇入選の拙句”餅花の下でこけしの品さだめ”の句に近作を加えてこけし手帖に何か寄稿して欲しい』という御依頼があることをうかがった。私の主催している俳句雑誌・蔵王・の表紙絵を数年前からこけしの絵に替えたが、一年毎にお願いして、佐藤守正氏、国分栄一氏、佐藤哲郎氏、今年は伊藤松一氏各工人の色紙を頂いている。遠刈田、弥治郎、鳴子と産地の紹介にもなり、各地の蔵王会員からも好評を得ているのは嬉しい。五月にはまた全国こけしコンクールが白石で開催されて賑わうことであろう。」
   ※  雪囲せし小暗さに小形子挽く     貞二
   ※  しぐれぐせつきし部落にこけし挽く  々
   ※  窓ふさぐ丈余の雪にこけし小屋    々
   ※  こけしの木干して山茶花日和かな   々
   ※  年かけてあつめしこけし雛まつる   々  以上。

桜とこけし

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 「こけし手帖」の発行人・西田峯吉氏の記載文。 
 ※ 西田峯吉氏は、戦前から昭和の年代にわたり、こけし界をリードしたこけし研究科・蒐集家。西田峯吉のコレクションを中心に展示する立派な西田記念館は土湯温泉にある。
 「昭和56年3月30日、庭のソメイヨシノが咲いた。戦前に山形の小林倉吉工人を訪ねたとき、胴の模様は満開の桜だと説明されたことを憶い出した。山形こけしの胴模様が梅であっても桜であっても、私にはどちらでもよいことだが、このとき頒けてもらったこけしの模様は咲き盛った桜という感じのものであった。鳴子の大沼健吾工人が胴に桜を描いたこともあったが昨今は見かけないようだ。一昨年11月例会で頒布した佐藤文吉の伊之助型七寸は桜材を用いて良い効果を出していて好評であった。文六型でなく、伊之助型に桜材を用いたことに、工人としての文吉の勘の良さを私は感じたのである。遠刈田の斉藤良輔の桜材小寸ものは、掌の中で温めてやりたいほどの可憐さで、まさに”掌中のこけし”と言うにふさわしい。桜材は有色材だがら、どんなこけしにも向くというものではない。作者は、その点に敏感であってほしい。胴に桜材を用いて効果を挙げたものに鎌田文市工人の”遠刈田思い出のこけし”がある。この呼び名は深沢要(こけし収集家・研究家)が名づけ親で、作者は”孝子こけし”と言っている。白石の孝子堂の落成式に作ったのが最初である。この老工は弥治郎系と遠刈田系の接点に位置する工人だから、このような特殊な作品にも不自然さが全く見られない」以上。写真は遠刈田温泉と桜です。
 ※ 桜材のこけしはよくあります。胴模様は、菊や梅が多いが、山形系には、桜の胴模様がある。

「例会だより」のなかに、、、。

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 「東京こけし友の会」昭和55年頃の例会だよりを見ていると、参加者の名前が載っている。出席者は100人以上の方たちが記載されている。当時、第二こけしブームと言われたのですね。お名前を見ていくと、こけし界の尊敬すべき研究家の方たちが参加されている。現在こけしコンクールや鳴子こけしまつりなどでお会いするダンディーな方たちも同じく参加されていました。驚きですね。
 こけし友の会の例会は、月に一度、行われています。こけしフアンの交流の機会であるとともに、工人に関する講演や、お土産こけしや頒布こけしの解説もあり、東京でこけしが手に入る貴重な場でもあるのです。私は、参加したいと思うけど、東京への機会がないのです。
 参加者名簿に懐かしいお名前を見つけました。四国松山市のS様です。それは、息子が小学生の頃、お友達が我が家に遊びに来ていた時「僕の叔父さんの家にもこけしがいっぱいあるよ!」と言ったのです。その事がきっかけになり、S様から案内状が届いたのです。S様は、当時、愛媛信用金庫の頭取をしていて、当銀行のロビーにて「伝統こけし展」をするという案内でした。必ず声を掛けて下さいとのこと、それは、平成元年4月10~21日までとのことでした。もう28年も前のことです。
 私は、さっそく見に行きS様にお会いしました。立派な古作こけしが展示されていて、今晃のこけしも並んでいました。その時、写真の「今 晃の二寸こけし」を3本頂いたのです。S様はすでに東京の例会にも参加されていて、今晃工人の良さが解っていたのですね。思い出のこけしになります。
 ※ 今 晃(こんあきら)工人(昭和28年生まれ)は、津軽系、長谷川辰雄工人の弟子で、現在すごく人気のある工人です。真ん中は、伊太郎型だそうです。

今年も最後の月に

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 今年も最後の月・12月になりました。日が短く、日ごとに寒くなってきます。新しい暦が届き、喪中はがきが届いています。今年こそ年用意は早めにと思ってはいるが、、、。
 『大人とは一年365日が早く感じてしまう人』と聞いたことがあるが、実に早く感じる年になった。年の終わり12月は、年の瀬で先生もあわただしく走りまわるということで「師走」ともいい、また俳句では「極月」ともいい「春待月」などと優しい言葉もある。
 今年5月、三人目の孫が生まれました。可愛いです。毎日、慌ただしいくしている姿が目に浮かんできます。中ごろには、又お手伝いに行く予定になっています。対して役に立たないが、孫たちに逢える楽しみがあります。
 私自身、今年も元気(?)で、過ごせたこと。転倒などしないように元気で年が越せますように。四国地方は、まだまだ暖かいので師走の気配は考えられないが、、、、、。どうでしょう。

堀口大学氏の「こけしの碑」

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 「こけしはなんでかわいいか」 堀口大学氏の詩婢をめぐって 西田峯吉
  ㈠ こけしの詩
 こけしを頌った詩はほかにもあるが、白石市民会館の前庭に詩婢となって人びとに愛誦されている堀口大学氏の次の六行詩こそは、世のこけし愛好者に贈られた珠玉の一編としてながく後代に遺るものであろう。
   ※ こけしは
     なんで
     かわいいか
     おもう
     おもいを
     いわぬから
          堀口大学
 作者・堀口大学氏は、3月15日正午、急性肺炎のため、89歳で急逝した。同氏は神奈川県葉山町の名誉町民であったので、町葬が3月26日午後、町立葉山小学校で行われ、千名を超える町民が参列したが、そのとき遺族から「詩を漁(あさ)る」と題した辞世の詩
   ※ 水に沈んだ月かげです
     つかの間うかぶ魚影です  
     言葉の網でおいすがる
     百に一つのチャンスです
 が発表された。この詩は昨年12月はじめ、堀口氏が一人娘の高橋すみれ子さんに示したノートに書かれていた。堀口氏は「これで、むこうに行って佐藤春夫に会ってもやっと胸を張れるような詩が出来た。これを作るのに一生かかった。これで満足だ」と話したという。(朝日新聞3月27日による)この辞世の詩というのをここに引用したのは、それが、こけしの詩と関係があるということではない。ただ、詩人大学氏を知る一助になる。という私の思いからであるが、私の心を理解してくださる読者が何人かでもあったらうれしい。「こけし手帖」昭和58年10月号より。
 

「キリ注意」の走行 

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 小春日和の昨日、宇和島のお墓参りに行ってきた。毎月お参りしているが、松山自動車道は、この時季になるとキリが発生しているときが多いのです。大洲あたりは、肱川に降りるキリが深く走行に気を使います。
 歳時記によると、霧は、空気中の水蒸気が冷えて凝結し、水の粒となったもので、本質的には雲と同じものである。一年中どの季節にも発生するが、平地では秋、晴れた風のない夜に多い。冷えた空気のたまりやすい盆地などでは特に霧が生じやすい。都会の霧には独特の憂愁があるが、山の霧は趣が違って粒が粗く、たちまち襲ってきて視界を奪い、晴れるのも早く、音をたてて動き去る感じがする。昔は春秋ともに霧(キリ)ともいい、靄(モヤ)ともいったが、後世は春のほうを靄、秋のほうを霧というように、霧が一年じゅうで秋が多いからと、霧は秋の季語になっています。
 昨日の松山自動車道は、内子に入る頃から突然、「キリ注意」の赤い字が出て深いキリが舞ってきて、五十崎、大洲、宇和。三間までも続き、宇和島に入って、やっと晴れ間が出たのです。
 いつもは、大洲あたりが霧が深く出ている。昔から、大洲には、色白美人が多いと言われているが、霧のため、日差しが遅く出るので色白美人の原因なのですね。
 ※ 海辺で育った私は、梅雨のころ、靄が濃く出て、海から聞こえる船の汽笛がボーッ!ボーッ!と、すごく懐かしーいです。
 
 
 

12月は検診月

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 12月は、私の検診月。乳がん検診、子宮がん検診、胃がん検診など他の諸々の検査をする。今日、乳がん検診を済ませた。もうすっかり忘れた?が、平成17年に乳がんの手術を受けた。いまは全く自覚が足りないと周りの者にいわれるけれど、、、先生はもう99パーセントは大丈夫だが、マンモドームとエコーは、毎年受けた方がいいという。今年も全く異常なしとの結果がでた。まずは安心です。
 「癌・がん・キャンサー」なんという怖い言葉でしょう。できれば、関わりたくない病気です。がん体質が遺伝するのなら、35年も前、父が噴門部腫瘍(胃がん)で突然余命3か月、亡くなってしまいました。やっぱり私も癌体質を継いだのです。私の乳がんは、平成17年、検診で見つかったのですが、ああーやっぱりと思ったのです。なんで私?なんで?と10日間くらいは泣いたのですが、手術を終え、抗がん剤投与を済ませ、頭髪が抜けて辛い思いはしましたが、、、、。
 今は元気です。乳がん罹患率は、15人に一人と非常に多いということだから気を付けてほしい。手遅れは必ず死亡につながるのです。だから、私は前もって検診しているのです。
 

こけしの虫干し

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 「こけし手帖」昭和57年1月号・渡辺格氏の投稿文より。
「秋も深まり空気も乾燥して来たのでこけしの虫干しをしました。5年ぶり、中には7~8年お茶箱に入れたままのものもあり、不安が一杯でした。開けて見てこけしの状態は思いのほかよかった。郡山に遠藤さんのようにこけしの家を作るのは夢の夢としても、居間や床の間など百本程並べていたのでは、出してもそのまま元に戻すようなもので、先輩達がいわれるようなこけしが身近になければ、所有していても所有していないと同然だ、その通りの状態です。深沢要先生の《こけしの微笑》を読んだ時、深沢さんを訪ねた武者小路実篤氏夫人が〈今夜は夢の中でたくさん可愛いこけしと顔を合わせるような気がします。〉といわれたくだりを思い出しますが、一本一本思い出のあるこけしも、茶箱に何年もしまってしまうといつの間にかその表情すら思い出せず、ましてそれに連なるなつかしい思い出も浮かびません。時々あきもせず収集しても死蔵するだけでは意味がないと自問自答し、所有できる本数を限定し、質を高めていくのがよいと結論を出し、しばらく考えて娘達が嫁いで、妻と二人になった時に一部屋に並べようと思い直すこともあります。」つづく。気持ちが良くわかります。 
 ※ まだまだ虫干しになりませんね。

こけしの虫ぼし つづき

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 「こけしの虫干し」つづき。渡辺格氏。 
 「こけしについての山田徳兵衛氏の談話が掲載されていましたのでコピーをもらって来ました。昭和17年5月9日付の福島民報の記事です。山田徳兵衛氏の玩具についての文献は、14.5年前勤務先の図書でこけしを日本各地の玩具の一つとして紹介されているのを見た記憶がありますが、戦中にこのような話を残されていることを知ってその造詣の深さに改めて感じ入った次第です。」以上。
 ※ こけしの虫干しとは、渡辺格氏は、多くのこけしを具体的に述べていなかったけれど、私はすごき良くわかります。収集家の方は、みんな同じ気持ちだと思います。
 私の場合は、茶箱に入れたりしてないので、虫干しという工程はしないが、こけし棚に並んだこけしを一本一本柔らかな木綿タオルで拭いていきます。シミの場合は浅ければ、塗料の箇所にマスクして120番、180番、240番のぺーパーを掛けて布で磨く。深い場合は、、、私はその工程はしたことがないが、その後、木工用ニスで上塗りするといいとのこと。中性洗剤を薄く布にしみこませて拭くといいといわれるが、私は失敗したので気をその後はしていない。いづれにしても、私のこけしは、あまりきれいではありません。
 仙台のこけし仲間の方は、茶箱に入れているとのこと、私は、それは寂しいのでならべて見ているから汚れてしまうのです。

秋保の佐藤武雄工人

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 「工人の俤」柴田長次郎の記より。
 昭和35年.6年頃の秋保では、菅原庄七と、佐藤武雄、山尾武治がこけしを作っていた。仙台の長町から秋保電鉄で秋保温泉駅まで行くと、少し歩いて覗き橋を渡る。橋の下は磊々峡の入り口にあたり、変化に富んだ石畳の川床が此処から続いています。橋を渡って温泉街に入るとすぐ左側に佐藤武雄の家があった。佐藤武雄は、秋保では古くからの木地屋の家系では古くからの木地屋の家系で佐藤三蔵の息子である。秋保こけしは、太田庄吉、佐藤三蔵と受け継がれてきたが、菅原庄七によって遠刈田とはまた一線を画した秋保型として地位を確保した。吉雄、武雄はいづれも、父、三蔵よりは兄弟子庄七に習ってその影響の濃いこけしを作っている。昭和30年以後、長男の円夫が木地を作り、娘の節子(高橋姓)が描彩を行うと言われている。また、昭和40年頃から、二男の武志も木地を作っているので、この一家のこけしは、木地、描彩ともにあまり明確とは言い難い。しかし私が訪ねた昭和36年頃には、武雄が自分でさかんに木地を挽いていたし、描彩も自ら行っていた。胴も少しくびらせて、其処に梅を描いたものなどは、武雄の工夫した型であろう。以上。

「川俣こけし愛好会」

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 「こけし手帖」昭和57年5月号「川俣こけし愛好会誕生」より。 
 福島県川俣はご存知の虎吉のふるさとで、虎吉なくしてこけしは語れません。本当の虎吉を知るのは私達です。幸いにして会の発足に際しては寛大な気持ちで喜んでいただき、また無理な願いでしたが顧問という役まで押しつけてしまい、誠に申し訳ありませんが、今後ともいろいろと相談、講義をお願いする次第です。皆様方からも、いろいろ参考意見を承り、ご指導下されば幸いです。
 なにしろ、こけしの道に入ってまだ一人歩きできない者ばかりの集団ですので、先輩諸氏から笑われることもあると思いますが、こけし収集こそ童心でなければなりません。本当のこけしの魅力を求めて接しなければ、本物ではないのでないか。所詮こけしは子供の遊び相手、そのところを皆さんと考え直さなければならないと思います。
 芸術的だとか、投機的だとか、価値的にとかく人は様々なことを言いますが、自分が好きなこけしはそれでいいので、人にとやかく言われてもどうしようもないのではないか。自分が好きな工人、好きなこけしは当然できてきます。良いこけし、悪いこけし、そんなことは、たやすく口にすべきことではないでしょう。 
 コンクールでの賞の在り方も人様々です。本当のこけし収集、誰かもっと判りやすく教えてください。子供がガンダムのプラモデルを集めるのも、私たちがこけし集めるのも本当は同じ心境ではないかな。なにしろ私は歩けるうちはこけし収集をしてみたくスタートしました。(川俣こけし愛好会・五十嵐謙吉)。
 ※ 土湯系・佐久間虎吉(明治26年~昭和30年)。佐久間義雄・二代目虎吉(大正3年~昭和60年)昭和38年父没後、二代目虎吉を名乗りこけし製作。初代以上の腕前で、土湯系として正統な味を伝えた。

秋保の山尾武治

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 「こけし手帖」昭和57年7月号より。
 「工人の俤・秋保の山尾武治」・柴田長吉郎氏。
 前回の秋保の佐藤武雄のことを書いたが、同じ頃こけしを売っていた工人として山尾武治がある。同じ頃とは言っても、武治の木地歴は武雄よりは一時代古く、武雄の父、吉雄と同世代に、佐藤三蔵の弟子となり木地を修業した。彼の弟子入りした大正五年頃には、三蔵はすでにこけしを作らず、兄弟子の菅原庄七のこけしを見て作ったのである。それ故、武治のこけしは、まさしく秋保型、庄七型のこけしである。山尾武治のこけしは、戦前作はすごい迫力があり、強い筆致で描かれているが、戦後になると一変して、平板的で筆勢やさしく、可愛いのものこけしとなっている。この為、戦後作は、娘の描彩といわれていた。私はこれを確かめたいと思って、秋保温泉に宿をとると早速、武治のところへ行って、こけしの描彩を紙に描いてくれるように頼んだ。このとき武治は、ロクロについて木地を挽いていたが、描いておいて宿へ届けるからといって、遂に目の前では描いてくれなかった。翌朝宿へ描彩が届けられたが、やはり優しい筆致で、果して武治が描いたのか判然としなかった。やがて武治が亡くなったが、暫く武治名義のこけしが世の中に売られており、矢張り他人の描彩であったかと思われたのであった。以上。

高橋忠蔵さんのパフ入れ ➀

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 「こけし手帖」昭和57年7月号「高橋忠蔵さんの思い出」松井貞夫氏より。
 もう十年も前のことです。「物置からこんなものがでてきてな」といって、忠蔵さんがえじこ容器のようなものをもち出してきました。それは、直径九センチくらいの、ずいぶんと古びたパフ入れ(写真)でありました。でも残念なことに蓋にはひびが入っていて、トピロの先であけたような穴まであいていたのでした。「すばらしい細工だけれど惜しいなー」と思いつつ、それを手にとって、ためつ、すかしつ眺めている私に、「捨てるのもいとおしくてな」と忠蔵さんは言い、次のような内容の話をしてくれたのありました。「それを沢山挽いたのは、戦後も間もなくの頃です。製品はリュックに詰めて、原ノ町から岩沼駅で列車に乗り替えをしようとしたとき、闇米と間違えられて公安官にとがめられたことがありました。苦しい時代でした。そんな思いをして福島では植木正子さんの店(植木人形店)へ木地製品を卸したのです。植木正子さんの店では、このえじこ容器にオシロイ入れという名前を付けて売ったのです、オシロイ入れは人気上々で、ずいぶん売れたようです。物資不足していた時代なので、若い娘にとってもこんなものが、しゃれた実用品だったのだと思います。」つづく。
 ※ 土湯系こけし工人・高橋忠蔵(明治26年~昭和56年、享年88歳)。娘婿は高橋佳隆工人、その息子・高橋通工人が活躍している。

高橋忠蔵工人のパフ入れ ②

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 「高橋忠蔵さんの思い出」松井貞夫氏より。つづき、 
 オシロイ入れは、東京へ出てからも作りました。そしてパフ入れというモダンな名前がつけられました。名付親は、たつみの森亮介さんです。私はこの製品を、風呂敷に包んで、たつみに卸に行ったこともあったのです。
 この話を聞きながら、私には目の前の薄よごれた木地製品が、段々と貴重品に思えてきたのでした。手にとってしげしげと見ると、それは、過ぎ去った日々の断片のように軽く、はかない感じがするのでした。「ずいぶん薄く挽いてありますね」と、私が感心して言うと、いつものように忠蔵さんは、にんまりとして話を続けました。「こいつを沢山挽いた頃は、カンナがよく切れて面白いように仕事ができた。あまり薄く削れるので、みず木を挽いたものでは、描彩のとき、染料が容器の内側にまで浸み透るほどだった。それで、染料のあまり浸み込まないビヤベラを多くつかったのです。」
 このパフ入れを、私が大事にいただいて帰ったのはもちろんです。今の思い出の品は、パフ入れとしてではなく、タイピン入れとして私の机上に置かれています。以上
 ※ この写真は、えじこです。高橋忠蔵のパフ入れではありません。

ねずみの髭の筆

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 「高橋忠蔵さんの思い出」松井貞夫氏より。「こけし手帖」昭和57年7月号より。 
 ”ねずみの髭の筆”
 忠蔵さんがこけしの描彩に用いる筆の中には、いつも一本の奇妙な形をしたものがあります。小寸物のこけしのあの楷書体の目は、この筆で描かれることが多かったのであります。(写真は、関係ありません)「この筆の穂は何だかわかるかな」或るとき画描を見ていた私に忠蔵さんはクスクス笑いながら尋ねました。目の前に差し出された細い筆の軸の先には、灰色のワイヤーブラシのような毛が一本だけついているのでした。
 「これは、ねずみの髭なのよ」と忠蔵さんは首をかしげている私に言って、またクスッと笑ったのであります。それから再び、忠蔵さんはくだんの髭にほどよく墨をつけて、ゆっくりと丁寧に、小寸こけしの目を描くのでありました。
 ロットリングで引いたような同じ太さの眸の線は、こうして描かれたのであります。ねずみの髭の筆は、忠蔵さんの発明だったのか、それとも昔の人達の知恵なのか、聞きもらしたのがちょっぴり残念です。
 今でも、小寸こけしのちっちゃな目をみていると、ねずみの筆のことが思い出され、同時に筆をつくるために、捕えたチュー公の髭を一本失敬している忠蔵さんの、一本ユーモラスな姿が目に浮かぶのです。

「梅に鶯」こけし

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 「こけし手帖」昭和57年7月号「高橋忠蔵さんの思い出」松井貞夫氏より。
 「梅に鶯」
 珍しく母が「こけしを挽くところが見たい」というので一緒におじゃましました。忠蔵さんは、まず梅材をロクロにとりつけ、いつものように熟練した手つきで挽きあげ、幾筋かのロクロ線を、赤や緑で魔法のように描いて見せてくれました。娘さんの入れてくれた熱いお茶を、すすりながら歓談するうちに、やがて忠蔵さんは、挽かれたばかりの赤味を帯びた木膚のこけしを手にとって、描彩にかかりました。「梅の材料だから梅模様がよいでしょうな」、そう言ってこけしの胴に墨で梅の古木を描き、花の輪郭を描き出したのでありました。いとも気軽に筆を運びながら、忠蔵さんは次に、何か鳥のようなものを梅の小枝に描きはじめました。「梅に鶯というからな、、、」、私たちは思わず笑顔になり、忠蔵さんは図画の得意は小学生のように、それはそれは楽しそうに描彩を続けたのでありました。
 忠蔵さんの梅こけしを見た人は多いと思います。後で知ったのですがこれは忠蔵さんの余技で、客へのサービス精神で描くことが多かったようです。
 弥治郎型と思わせるこの梅こけしに、いま、系統性うんぬんすることは無用でありましょうこのこけしは、忠蔵さんのサービス精神と、創造意欲と、多少の茶目っ気が生み出したものであります。
 今年の冬、亡くなった母の箪笥を整理していたら、和紙に大切に包まれたこけしが出てきました。仏様のように柔和な目差しをした梅こけしをみていると、あの日のことが昨日のことのように思い出されるのであります。

こけしと私

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「物心つく前から、私のまわりにはこけしがありましたから、最初に出逢った「素晴らしいこけしのはなし」とは無縁です。世の中にはこんな「物」があったのかと思う「ハッ」とする興奮をこけしで味わう事がなく過ぎています。この事は、今でも私にとってこけしはまず人形であって「美」の対象としてのみみる事が出来ずにいるのと、無関係ではないと思います。
 記憶に残っていない時代のこけしはおもちゃでした。家の者のはなしによりますと、銭湯へ持って行って湯舟に入れ、「お舟だ、軍艦だ。」といって浮かべて遊ぶのが好きだったそうです。当時、住んでいた所では内風呂のある家などはありませんでした。我が家では、きなきなを知りませんでしたから、彩色のはげてしまった、こけしが何本もあったそうです。「今日はこれとこれを持って行く」とえらんだとの事です。
 何故、戦前、下町の家の中にこけしがごろごろしていたかと申しますと、以前、『こけし手帖』にも「好きなこけし」という題で書いた事がありますが、父が山登りが好きで、その中でも蔵王越えが好きでした。当時は、山形駅から高湯までは一日の行程だったそうです。山を下った温泉場のみやげもの屋でたまたまこけしが目に止まり、一本求めて帰ったのがはじまりです。愛好家の方々とは違い、その「素朴な美しさ」にひかれたというような、大層なものではなかったのだと思います。ただの、家へのお土産であったのです。ですから子供がおもちゃとして遊ぶ事に、何の抵抗もなかったのだと思います。」
 ※ この文は、現在もこけし界の中で、重鎮としてお世話などして下さっている 宇田川千恵子氏の文です。「こけし手帖」昭和57年11月号より。

こけしと私 №⓶

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 育ったところは、浅草区蔵前二丁目、蔵前通りを一本入った狭い道に面した家でした。現在は、浅草橋駅寄りに問屋がかたまりましたが、表通りはおもちゃ問屋が多く、家の向こう側は、「糸善」という雛人形の問屋の倉庫でした。遠い記憶の最初のこけしは人形でした。
 何十年も昔の問屋の名前をどうして憶えているかと申しますと、倉庫の戸には、大きな字で「糸善」と書いてあり、暇さえあれば、その前に座って、いつ来るとも分からない倉庫の人が来て、大きな錠前を開け、中に入れてくれないかと、待っていたのです。中がどうなっていたかの憶えはありませんが、入れてもらえた時は、今、思えば「開け、ごま」ほどのわくわくした気持ちでいっぱいでした。
 そして時々、半端になった右近の橘とか、左近の桜とか、内裏雛の台(御殿だたみというのだそうです)などをもらい、その台の上にこけしを並べて、おひな様ごっこをしたり、また台はひっくり返すとうすい箱になり、底にきれいなあまり布を敷いてこけしを寝かせたりしたものです。但し、弥生の節句に「娘道成寺」や「藤娘」のお人形と一緒に雛段にこけしが飾られていた憶えはありませんし、ふだん、部屋の棚などに飾ってあったという事もありません。どこまでも私のおもちゃだったのです。
 これらの手あかで汚れたこけしがどうなったか、心配してくださる方もいらっしゃる事と思いますが、ある一本のこけしを残して、統べて昭和19年12月29年の空襲で灰になりました。以上。
 これは宇田川智恵子様の文です。「こけし手帖」昭和57年11月号より。
 ※ 宇田川さんのお名前は、いつもこけし手帖で知っていましたが、昨年も、今年も、鳴子こけしまつりに来られていてお世話をしており、「あの方が宇田川さんよ」とお聞きした時は、すごく嬉しかったのです。現在もこけしに携わっていられるということに羨ましく思います。

続・こけしと私

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 嬉しいことに「こけし手帖 261号」・昭和57年12月号に「続・こけしと私」宇田川智恵子さんの記事が載っている。前号では、昭和19年の空襲でこけしが灰になったということで、その後どうされたのかと気になっていました。その後の事、嬉しく読ませていただいている。
 「縁があったはなし」宇田川智恵子記より。
 日本国中祝った紀元二千六百年という、おめでたい年も過ぎ、太平洋戦争がはじまり、昭和17年には,第一回の空襲があり、早稲田で家が2.3軒焼けました。知り合いが近くに住んでおり、前を何度か通りましたが鉄条網だか、板囲いだか(随分違います)してあり、男の人(在郷軍人か、憲兵か)が立っており、横を向かないで、真直ぐ急ぎ足で通り過ぎました。
 何故か、19年の春頃から疎開がはじまり、小学生も田舎のある人は縁故疎開に、希望者は集団(学童)疎開にと行きました。両親の生まれが東京ですから、子供を引取ってくれるような田舎もなく、集団疎開をする事になりました。
 講堂で校長先生から『行く先は、宮城県刈田郡宮村遠刈田という所です。遠刈田は「トウカッタ」と読むのですが、校長先生は、みんなに「エンカッタ」と読んでもらいたい、縁があったのだと思います。遠かった、遠かったと云うから、どんなに遠いかと思って出掛けてみたら、実際は思ったより近かったですよ。』「銃後の少国民たる君達は・・・」と云うはなしは総て忘れましたが、このくだりだけは憶えています。
 いよいよ19年8月14日夜行で上野をたち、遠刈田にやってきました。宿舎は「あずまや」でした。
 手荷物の中には、岡崎栄作と称する九寸のこけしが一本入っておりました。このこけしは現在もあります。たった一本の戦前作ですが、哀れな事に、顔といわず、胴といわず、赤チンが塗られています。今は描彩と共に薄くなっています。何故、赤チンが塗られたかといいますと、怪我をして、衛生室で赤チンを塗ってもらう時、一緒に塗ってもらったのです。この頃の付き合いはこういう風でいつも一緒でした。東京に戻ってから、「小さい時のように、よく温泉に一緒に入らなかったネ」といわれました。つづく。
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