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Channel: こけしおばちゃん
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山本与右衛門と鈴木豊

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 昨年、鈴木豊さんより友の会退会の通知があり残念に思い、あらためて揃えて眺めて見た。昨年末に師匠の山本与右衛門のこけしの中古品があるのを知り、正月早々入手した。
 写真は、山本与右衛門作5.6寸、昭和15年作。写真△蓮右、鈴木豊作5.8寸、昭和40年代作?。左が鈴木豊作6寸、昭和53年作。
 山本与右衛門は木形子談義・橘文策著に紹介された。与右衛門こけしは本人が研究し知人の意見を取り入れ工夫し出来上がったという。昭和9年から制作を始め、丸顔で眉間が広く目が小さい。昭和15年作はやや面長になり顔の描彩や胴の牡丹の花もぼってりと力強い。描彩は本人作は一部あるが別人であるという文献が多い。昭和36年に亡くなった。
 他に久松・名和・らっこ・鼓堂コレクション書に作品が掲載されている。
 鈴木豊は、昭和33年山本与右衛門から習い、以後も現在まで師匠の型を継承している。豊のこけしも年毎に変化しているが写真△留βΔ師匠松治含めた中でも良い作品ではないか。
 系統が鳴子系に分類されているのは、活動地域一ノ関に鳴子系工人がいて鳴子圏内と分類されたようだ。「こけし手帖」532号『例会ギャラリー』橋本永興氏著より。

娘(こけし)をお嫁に出す心理

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 こけしを人にあげる、漠然とあげるのではなく何らかの意図目的共鳴等があってと思うが、何人(本)お嫁に出したのだろうか?譲ってほしい、大事にするから、気に入ったから、記念に、思い出に、娘のお土産に、その都度ごとに理由は、色々だが、こちらの気持ちと相手の態度次第であった様だ。関心を持ってくれれば、それが第一条件、そしてこけしを楽しんでもらえ、何かを感じてくれればそれで十分。こけしの行く末を考えてかどうかは不明だが、こんな気持ちになれば惜しみなくあげてしまっている。
 何本かの中より選んでもらったりすると、なまじっかこけしの知識を持っている人よりも、初めての人の方が純粋な良いこけしを選びもって行かれてしまう。自分の手元から離れて、冷静になって初めて公開したこともたびたびあったのだが、そうこうしているうちに、何十年かすぎてしまった。
 人には『お嫁に出しました』なんて格好つけた言い方をして、こけしとの別れを定義付けしていたわたしであったが、最近は「お嫁に出した」という言い回しをしなくなった。それは本当の娘を、嫁に出してから、一言も言わなくなった。いや言えなくなり禁句にさえなっているのだ。
 こけしを手入れしていて、眺めているとふと娘の顔と重複し、寂しさがこみ上げてきて、目頭が熱くなり、どうしようもないのである。
 これからもこけしをあげ続けるだろうがその時の感じ方は、少し違ってくるだろう。
 所詮こけしは趣味の範囲内なのであろうか?未だ趣味の段階から脱皮していないのだろうか。
 「嫁に出す」気楽に使っていた言葉であるが、言葉の意味が、こんなに重くのしかかって来るとは思わなかった。言葉にしてしまえば、同じ発音ではあるが、ニュアンスがあまりにも違う。違いすぎるのだ。
 こけしも奥が深いけれど、言葉(表現)の難しさと、意味の深さを痛感している次第である。以上。
 「こけし手帖」532号 吉田博人著より。
 ※ 私も 大切なお友だちなどに、こけしあげました。「お嫁に出しました」惜しい!

「周辺のこけし達」

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 名和好子さんのこけしコレクションは(美しきこけしー名和好子コレクション図譜)として、昭和63年9月にグラフィック社から刊行されたが、別冊に「伝統こけし工人系譜・産地別工人名簿・文献目録」が付けられていた。この別冊はかつて名古屋こけし会、金沢こけし会で活躍された清水寛氏によるもので、〈図譜〉の編者 箕輪新一氏の強いすすめにより、陽の目を見たのである。
 私が小塚錠一の名前を知ったのはこの別冊による。伝統こけし工人系譜には、海谷吉右衛門と我妻吉助の弟子で大正8年3月7日生、こけし産地別工人名簿には、ほかに住所仙台市銀杏町23-25、遠刈田系とあった。ただし覚えていたのは仙台と名前だけ。
 中古の即売で小塚のこけしが誰にも買われず、最後まで残っていた。このまま見過ごしてしまうのは忍びない、何か調べられるのではないかと入手した次第である。 
 このこけしから得られる手がかりとして、昭和52年2月に作られたものであることがわかった。また、こけしは海谷周松の写しであることが〈辞典〉の写真でわかった。周松は吉右衛門の兄で、小塚の師匠である吉右衛門も、同じく〈辞典〉によれば昭和46年周松型を復元したとある。
 小塚が吉右衛門の復元作を写したのか、周松のこけしを直接写したのかは分からない。周松のこけしは作品集少なく、市場にあまり出ないという。〈辞典〉の鹿間氏蔵は今どこにどうしているのだろうか。 
 小塚の名前は〈伝統こけし最新工人録〉作品未掲載の工人リスト(数年の実績のある工人)の中にもある。以上。以上。『こけし手帖』533号 小川一雄氏著。








福寿の勘治型古作

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 『こけし手帖』平成17年6月号 533号「例会ギャラリー」より。 
 昨年6月インターネットのオークションで写真左側のこけしを入手した。顔の描彩や胴模様から勘治型のこけしらしく思われたが、胴底の署名は「鳴子 高橋福寿作」で、福寿さんの独身時代(昭和32年以前)の作と分った。
 勘治型のこけしは昭和27年に土橋慶三氏が西田峯吉氏蔵の有名な勘治こけしを鳴子に持参し、盛、福寿の両名がその写しを作ったのが始まりとされている。その勘治のこけしと比べて写真のこけしには相当な違いがあり、製作年代に興味が湧いた。
 そこで福寿さんの昭和26年作のこけし(写真右側)と比べて見た。右のこけしには頭頂に髭が描かれており、その様式は左のこけしと酷似している。またその横鬢も下部が後ろに跳ねており、左のこけしの横鬢から上部の丸結いを除いた様式とも思える。顔も一筆目と二側目の違いはあるがほぼ同様と言えるだろう。そう考えると頭部の描彩に関しては、昭和27年以前にもこのような様式が「高勘」に伝えられていたのが分かる。
 一方、胴模様に関しては他に類例が無く、27ねんに勘治のこけしを見てから後に作ったものと推測される。勘治のこけしは大輪の菱形菊を二輪描き、その両脇に二対の蕾を配したものであるが、福寿さんは上の菊は縦長に下の菊は横長にデホルメし、蕾も写実的にアレンジして描いている。若き日の福寿さんの迸る(ほとばしる)才能を彷彿させるこけしである。以上。国府田恵一氏著。
 ※ 鳴子系こけし工人・遊佐福寿(昭和5年~平成13年、享年71歳)は、高橋盛の次男で高橋盛雄の弟。昭和32年、遊佐家に養子に入る。作品は何を作っても優秀で、特に高橋勘治型継承者として抜群の人気を集めた。各大臣賞など、多数獲得。人柄もよく、鳴子の中心となって活躍。鳴子駅前の「福寿の店」も有名。

平賀謙次郎のこけし

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 『こけし手帖』平成17年7月号 534号「例会ギャラリー」より。
 戦前からの工人は本当に少なくなってしまった。今回は平賀謙次郎のこけしを時系列に迫ってみたいと思う。
 山形系(作並系)こけし工人・平賀謙次郎は大正7年11月17日、平賀謙蔵の二男として、作並温泉で生まれた。昭和6年3月、作並尋常小学校卒業後、父につき足踏みロクロで本格的に作り始めた。兄弟弟子には兄の多蔵、叔父の貞蔵がいた。同14年2月日華事変で応召。帰還後、同16年7月より謙次郎名儀でこけしを出したが、同13年作も僅かに残されている。
 写真の右は、鹿間氏旧蔵品で尺(こけし・人・風土)にも掲載されている。(辞典)にこの時期のこけしについて『特殊の情味、情味が瞳小さく緊迫感をゆうする快作であった。戦地に行く前の精神的緊張の現れであろうか。』と評されている。弱冠20歳の時の作品には驚かされる。 
 戦後の作は『鼻小さく上瞼の曲がり少なく、両髪も短かく』めんこいこけしを追っかけたようである。かわいらしいこけしは愛好家の手元にはあまり入ってないかもしれないが、一般の家庭の中で多くの人々に安らぎを与え続けているに違いない。写真の中央は、同30年作で八寸、左は同35年作八寸であるが、仔細にみると変化していく様子が楽しめる。以上。(小川一雄氏著)
 ※ 平賀謙次郎は、平成24年2月14日没、享年94歳。長男の平賀謙一工人は(昭和18年~平成19年8月11日没、享年64歳)。現在、謙一の長男・平賀輝幸工人(昭和47年生まれ)が、作並温泉でこけしを作っている。一昨年、こけしコンクールで文部大臣賞を受賞した。私の大好きな工人です。 

慈しむ小寸こけし

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 『こけし手帖』平成17年8月 535号 「例会ギャラリー」より。
 愛らしい小寸こけしは、私にとって心を和ませ癒してくれています。
 私はいつもは主に定寸こけしを収集しているのですが、素朴なこけしの原形のような小寸こけしにも魅かれるものがあり、入手できる機会には自然に収集に熱が入りました。
 今日見て頂くのは、お気に入りの小寸の数本ですが、工人がこのこけしを作った時の気持などを想像して楽しんでいます。特に、盛秀太郎の極端な細胴には心魅かれます。
 写真の右から、佐藤喜一の小寸で戦前の作で一筆目に花模様で特徴が表れている。二本目は、盛秀太郎作で昭和20年代のもの。中央二本の重治こけしはとぼけた表情が良い。
 写真△痢右二本は、高橋通の作で、鯖湖の中心的な継承者としての雰囲気がある。中央二本は
高橋忠蔵で、戦後間もない頃の作。左二本は、俊雄でずんぐりしたフォルムと配色が魅力である。
 以上。東京こけし友の会 百足正文氏著。

「こけしとの再会」

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 『こけし手帖』平成17年8月号 535号より
 最近は、面白いことが続き、気分を良くしている矢先に、36年前に所有していたこけしに、会えたのである。だいぶ前にも、高橋盛さんに会えたのであるが、今回は、伊藤松三郎さんがいたのである。
 流通の範囲は、そんなに広いものではないのだろうが、それでも、確率的には難しいのではないだろうか。しかもこけしを扱う店ではなく、露店の古物商となれば、さらに難しさを増すと思える。
 この松三郎は(写真は別です)、鬼頭温泉にスキーに行ったときに、入手したうちの一本である。記録によると、昭和40年2月から45年まで所有しており、就職初期時代のスキーの友であり、岳友でもある友人にあげたものである。
 ここ5年程、音信不通状態となり、どうしているのかと心配していた矢先であり、何か胸騒ぎを感じていたのであるが、やはり転職引越後、入退院を繰り返し、肺がんで亡くなられた、と12月の挨拶状で知らされた。早速線香を供えさせてもらい、雑談の中で奥様に確認したところ、お嬢さんに、だいぶ昔(昭和54年)にあげたそうで、箪笥の上にずっと飾られていたとのこと。そのお嬢さんも、平成15年に結婚され、身辺整理のかたずけの品物の中に、松三郎もあったようだ。大分色あせているが、大事に飾ってくれた形跡がある。しかし処分から、1年強の月日がたっており、その間に、顔や胴に生傷も増え、辛い思いをしたように感じられた。
 収集も運の内と誰かが言っておられたが、意外な形での再会であり、形見にも似た形となってしまったようだ。
 散歩がてら立ち寄った骨董市での出来事もこんな再会となってしまったが、うろうろ散歩運動法は、意外な成果をもたらすものである。友人にこけしをあげる、そしてそのこけしが、何らかの役立の一端を担ってくれれば、充分満足である。
 奥様が、持参したこけしをしみじみと眺めていたのだが、今も強く印象に残っている。
 以上。こけし友の会・吉田 博人氏著。

作田栄利のこけし

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 工人の多い産地でありながら、今一つ人気が出なく、しかも松之進の外弟子の為か、数多く製作したわりには忘れられ、騒がれない工人。しかも鎌田文市の遠刈田での師匠で吉郎平系統の大らかな古風的描彩を、受け継いでいる。サラブレッドではないが、底力を持った野生馬的なセンスを持つ工人の一人である。作田栄利を取り上げてみたい。
 第一次こけしブームで復活した栄利も、昭和18年以降は作っていない様だ。戦後昭和25年に復活するも、27年頃までは、見た覚えはない。28年~34年頃までの作品は種々変化があり、興味をそそられる。 例えば、緑のロクロ線、五段、六段の重菊、葉の元は巻いてなく、ビン飾りはふっくらと戦前作と同じであるが、翌年32年頃には、圧迫された顔で、目より下に下がって来た。変化が多く、人それぞれに楽しめ、固定化されていない。しかし、35年になると、ビン飾りも開き、眉毛の位置によって来る。ロクロ線がなくなり、葉元が巻き出し、それ以前と明らかに違いが生じ、頭も縦長がはっきりし、目も細く強く、張りが出てくる。そして品も増してくるのである。 
 その後は、大きい変化は無いが、だんだん目が上に寄り、大きくなってきて、甘さを感じられる。
 一般に、人気がないと中古市場でも良いものが残っている事が多く、各人の好みもあるが、絶えず頭の中にポイントを入れて探し続けると、収集の楽しみも増すものである。
 写真の右は昭和16年頃の木地友晴の木地、鋭さが感じられる。 
 写真の左は、昭和36年、64歳の時で、固定化された初期の作品で、重菊の3段は面白い。以上。
『こけし手帖』平成17年9月号 536号「例会ギャラリー」より。吉田博人氏著より。
 ※ 遠刈田系こけし工人・作田栄利(明治31年生まれ~昭和40年、享年67歳)その後、長男・作田栄一工人(昭和4年~平成9年、享年68歳)。後継者は?
  

斉藤弘道と佐藤正一のこけし

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 『こけし手帖』平成17年10月 537号 小川一雄氏著より
 私が斉藤弘道を知ったのは、昭和42年のことである。(美と系譜)に斉藤太治郎と弘道が3本ずつ載っており、中屋蔵の太治郎に次いで、弘道の3本に好感が持てた。解説には『太治郎は一代限りの名工と思っていたが孫の弘道が祖父に負けぬ張りのあるのを続々と出したのは驚嘆に値する。』とあり、この3本いずれもが33年の作であった。 
 44年になって初めて弘道の新品を2本、備後屋で入手することができたのであるが、10年の歳月の経過は大きく、作品を異なるものにしていた。眼店小さく太治郎を写していたのが、その分弘道本人ののびのびした筆致は消えていたと言えようか。
 そこで、この時点での話しであるが、弘道のこけしを中古品で遡(さかのぼ)りたいと強く思ったのである。話題の豊富な太治郎のこけしは、入札会でも良品の入手は難しく、そうこうするうちに弘道のおじになる佐藤正一こけしも集まってきた。 さて弘道であるが、34年作を1本入手することができた。
 写真は、(美と系譜)のものとは1年違いであり、描彩はのびやかで力強く味もある。右から3本目は正一の33年作であるが、正一も悪くはない。弘道のこけしが太治郎に接近しているとはよくいわれることであるが、この時期正一の影響が強い。
 ※ 土湯系こけし工人・斉藤弘道(昭和5年~)は、名工 斉藤太治郎の孫の孫。叔父 佐藤正一について昭和30年より木地を終業、太治郎型をつくり、独特の返しロクロ入りの緻密な胴模様を描く。しかし、平成26年、廃業したと聞いたのです。弘道こけしは。わが家に数本あります。

『全日本こけしコンクール』

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 「第59回全日本こけしコンクール」-ほほえみの年輪をかさねてーの案内状が届いた。毎年届けてくれて感謝しています。
 会場 宮城県白石市のホワイトキューブにて、5月3日~5日ま開催、白石市の一大イベントなのです。
 今年の招待工人は、津軽系・阿保正文、木地山系・三春文雄、肘折系・鈴木征一。蔵王高湯系・田中恵治、山形作並系・小林清、鳴子系・小林繁男、遠刈田系・日下秀行、弥治郎系・佐藤英之、土湯系・阿部国俊の各工人さんが会場で実演販売する。大きな会場は、たいへん賑わいます。
 私は、平成19年より毎年参加している。毎年会場でお会いする下関のMさん、岐阜のNさん、茨木のKさん、山形のKさんご夫婦、Sさん、東京からKさんご夫婦、北海道のMちゃん、仙台のKさ等々、毎年お会いするのです。すごいでしょう!そこで、こけし界のニュースなど知らせてもらったりします。
 楽しみは、こけし仲間と、各工人さんの工房をお訪ねしたりします。そこで求めたこけしは忘れられないこけしになるのです。私自身、数年間は、四国松山から、高速道路を走り会場まで車で参加しました。21年には、岩手県まで足を延ばし和賀郡の遠刈田系・小林定雄工人を訪ねたり、鳴子のこけし街をたずねて楽しみました。
 さてさて、寄る年波には勝てません、、、、足(すね)の痛みで乗り物の移動が難しくなりました。今年のこけしコンクールの参加は難しいですね。残念です。

佐藤雅弘のこけし

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 『こけし手帖』昭和17年11月号538号。
 今回は弥治郎系佐藤雅弘工人の最近作を御覧いただきます。
 最近私が最もエネルギーを多く使っている工人の一人に、佐藤雅弘工人がいます。佐藤雅弘工人は、昭和12年3月1日、宮城県鎌先温泉で木地業佐藤雅雄の3男に生まれました。祖父は弥治郎系栄治系列に分類される勘内、伯父さんには伝内がいて弥治郎系の古い重要な流れの中の工人です。兄には惜しくも他界されてしまいましたが、直樹工人がいます。
 従来の多くの文献では次男となっていますが、次男の方は早く亡くなられたそうで、実際は3男が正しいとの事です。
 先輩こけし研究家の調査で伝承過程を見て分るとおり古い時代の遠刈田、青根が源となっています。従って雅弘工人の作品も、頭にはベレー帽と言われる轆轤模様、胴には轆轤線と重ね菊模様が描かれます。
 昭和28年より兄、直樹工人につき正式修行、33年に仙台に出て、34年頃よりこけしを創り続けています。
 今回、御覧頂く写真は、勘内型えじこ、その頭を使った小寸こけし、そして兄、直樹型作り付け2本です。写真△蓮父,雅雄型4本です。以上。「例会ギャラリー」北村育夫氏著より。
 ※ 弥治郎系こけし工人・佐藤雅弘(昭和12年生まれ)。鎌先の佐藤直樹の弟。勘内型を継承し弥治郎系として優秀な作品を作っている。

洗練された横山政五郎こけし

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 『こけし手帖』昭和17年12月発行 539号より。
 明治27年肘折温泉に生まれる。14歳の時、佐藤周助工人につき4年間木地を学び、その後1年の礼奉公と自宅での1年間のロクロ作業を行う。その後はロクロを殆ど踏まず、長い空白期を経て戦後に限られたこけしを作成し、昭和26年より農業の副業に農閑期にこけしを作り復活する。  
 写真のこけし(尺二寸)は昭和30年代前半と思われる。特徴は前髪が✕にクロスしていなく半円に近い、頭頂の前髪に近い赤い点に放射線が接続されていない、また額の飾り点は少ない。直胴の上部に鉋溝、上部と下部に赤と紫と黄(退色して殆ど分からない)のロクロ線。その間重ね菊が描彩されている。表情は肘折の強烈さは無いが洗練されている。
 写真△留βΑ8寸3分)は7月の例会入札で入手した。前髪が✕にクロスし、胴の上下に2本の太い赤線が入り、額の飾り点は数が多い。
 2番目(6寸3分)は昨年の例会入札で入手した。右側のこけしと製作時期(昭和34年以降と思われる)が同時期と思われる特徴が良く似ている。 
 左側のこけし(6寸)は5月の例会で頒布した齋藤右内工人の政五郎型で昭和25年頃植木氏蔵の写しです。前髪が✕にクロスしていなく、頭頂の前髪に近い赤い点に放射線が接続されている。
 政五郎こけしに強い関心を抱いている。周助の弟子でありながら肘折の強烈さと凝視度が無く、整った表情と洗練さを持っている不思議なこけしである。以上「例会ギャラリー」田中厚司氏著。

大野栄治のこけし

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 『こけし手帖』平成18年1月号 540号より
 大野栄治工人のこけしは嘗て入手困難なこけしの一つとして又、高価な物としてコレクターの心を焦がしていた。最近になり、当会の入札やネットオークションでも、しばしば見かけられる様になった。私も入手を心掛け、手元にも30年代前後の物が少々集まった。 
 工人の作品の良さは言わずもがなかも知れぬが、絶妙な木地にあり、そのフォルムは曲線と直線の微妙な変化と全体の調和は素晴らしいに尽きる。弥治郎時代の写真を見るに生来の物なのかと推察される。又、描彩はマテで気品に満ち溢れて、見る者を魅了する。 
 同工人は明治37年2月10日生まれで15歳の時に嘉三郎に弟子入り、兄弟子の佐藤誠に習った。退職後、師匠の長女と結婚。昭和3年には師匠名義の梅こけしを作る。当時の逸話として、こけしの胴模様を描くにあたり兄弟子の佐内は「松」・春二は「竹」・栄治は「梅」となった由。幼長の順かと思われる。
 翌年、北海道屈斜路湖畔のホント市街、6年には川湯温泉に家族で移り住む。残された嘉三郎は梅こけしの描彩に苦慮したと云われている。只、栄治もこけしでは生計が立たず、7年以降漸く生活が安定したようだ。遠隔地で寡作であったこと又、昭和14年頃から25年迄は殆ど作らなかった事からも稀少な物であった。
 写真左から昭和30年頃、頭は同33年、鹿鳴調のペッケは同33年、えじこは同39年、端は同41年作である。参考までに、誠考工人作の、ペッケとえじこを並べてみた。夫々の個性を対比戴きたい。以上。 例会ギャラリー 平塚俊夫氏著。

続・佐藤キクのこけし

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 『こけし手帖』平成18年5月号 544号より 
 キクさんがこけしを作り始めたのは本人の話では昭和45年であるが「周助三代のしおり」では昭和48年とされている。本格的に市販されたのがこの48年頃であろう。こけし手帖476号の「佐藤キクのこけし」では昭和51年、52年を掲載しているが、今回それ以前の48年前後の「きく」こけしを紹介する。
 写真右から,8寸頭嵌め込み、白胴ロクロ線なし △5.5寸作り付け白胴帯び有り以上が48年作。5.6寸、5.8寸頭、5.5寸各作り付け、製作年不明であるが、48年前後と思われる。どれも穏やかな顔の描彩は見る人の心を癒してくれる。古肘折の味を漂わせた初期の作品を眺めるのも蒐集の楽しみである。
 昭和60年数々の大賞を取った頃に話を聞いた。昭和45年5寸作り付けで始めた。最初の頃は、夫 巳之助から「これ以上上手にならないからこのままでいいよ」と言われた。「夫は目が不自由な所が有ったのにあれほど出来た、自分は不自由でないので頑張らなければいけないと思った。」描彩では「目鼻の描き方に気を付けた。二重の目は一重より難しかった。筆の先をよく傷めたがそれは木地の肌の仕上げが下手だから足踏みろくろを使用した時のような仕上がりに成った為だ」と言っていた。
 受賞について「一生懸命努力した。夜中でも朝早でも納得行くまで教えを思い出し思い切って筆を動かした。夫 巳之助が後ろについている気持ちでやっている。受賞はそれらの真剣さが認められて嬉しかった」と語っていた。
 明治人の気骨な人柄を感じた。それが夫 巳之助、息子昭一とは違うキクさんの肘折こけしと言える素晴らしい作品に繋がったと思った。「周助三代のしおり」より。橋本永興氏著より。
 ※ 肘折系こけし工人・佐藤キク(明治44年~平成12年、享年90歳)は、名工、佐藤巳之助の妻。巳之助が病気で倒れてから、昭和45年10月頃から、突如としてこけしを作り始めた。その後貴重な存在の女性工人として活躍した。小寸や肘折の古型を伝える佳品を作った。長男・佐藤昭一工人(昭和10年生まれ)が佐藤周助、佐藤巳之助を継ぐ三代目工人として活躍している。

陳野原和紀の初期粂松型

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 『こけし手帖』平成18年5月、544号より
 土湯系湊屋の佐久間粂松のこけしは何人かの工人により復元されているが最も力を入れたのは陳野原和紀であろう。和紀は昭和4年の生まれ、42年3月より翌年5月まで斉藤弘道について木地修業後、独立開業した。
 43年5月に鹿間時夫氏の勧めで粂松のこけしを復元し、以来粂松型と本人型を製作するようになった。 「こけし辞典」によると独立直後のこけしは紡錘形の目をした童女風の本人型であったとある。
 写真の右2本は43年5月8日の記入があり正に初期作と思われる。目は紡錘形であるがそれ以外の描彩は粂松型であり、粂松型を試行し始めたこけしと言えるだろう。3本目は胴底に粂松型と本人の記入があり本格的に粂松型に挑戦し始めた出発点のこけしである。ラッキョウ形の頭、三日月形の大きな前髪、二筆のの大きな鼻に写実的な結び口、一番の特徴は下瞼の長い湊屋系の目である。やがて4本目のこけしを経て5本目のこけしでこの型の粂松型は一応完成となるのであろう。
 写真△盻藉侶松型。右端は上の左端と同型であるが6寸のためか頭部のカセが異なり笑口。2本目は10月18日、3本目は10月20日の記入がある。表情が少しづつ変わっているのが面白い。左端は表情、胴模様も異なり粂松型かどうか不明である。 
 和紀の粂松型はその後各種現物の復元により格段に上達するのであるが、面白味という点はこの43年の初期作が一番ではないだろうか。以上。「例会ギャラリー」国府田恵一氏著。
 ※ 土湯系こけし工人・陳野原幸紀(昭和23年生まれ)は、和紀の弟。土湯系こけしの一人者です。

「カメイ記念展示館」

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 『こけし手帖』平成18年2月号より。
 企画展「平賀貞蔵の世界」訪問記 平塚俊夫氏著より。
 去る11月6日(日)同館を訪問し、企画をされた同館学芸員の青野由美子さんと展示コレクションの持ち主である和田武(仙台市若林区白萩町31-20)さんを取材した。青野さんは、常設の亀井昭伍コレクションとは別に、特定の工人に照準をあてた展示を企画し、既開催の「今晃」展に続き第二回の企画展になるとの事でありました。
 今回は「平賀貞蔵工人」に焦点を当て、和田コレクションを基に「作品」だけでなく、同工人の生き様までを俯瞰するような力の入った展示となっていました。同工人の作品を数百本所有する和田さんのコレクター魂の真骨頂とでもいうのでしょうか同工人が日常使用していたお手製の作業用電気スタンドに始まり、こけし販売の為の「書きつけ」や工人が手慰みで書いたと思われる「こけし小唄」の色紙やら、様々なものが展示されていました。
 又、昭和50年当時の和田氏撮影の写真記録の同時展示されていて、往時の砂利道に繋がる作並駅や
工人宅・杉林の中の作業小屋、轆轤に向かう工人等臨場感溢れるものでした。和田さんから作品に纏わる思い出や工人との語らい等様々なお話を拝聴した。一時コレクターからは賛否両論あった朱色の千段巻きの作品や瓜肌かえで木地の作品等紹介を載く。前述のリズミカルに巻かれた線描等技術面での冴えも大変興味深いものでありました。
 企画展の添え書きにあった「無限と思われる豊富な形・描彩・巧みな技」を改めて実感させる展示でありました。又、コレクターの工人に対する思いが込められて楽しく、且つ心温まる展示でもありました。この企画展は10月4日から2月5日迄開催されるとの事であります。仙台方面にお出かけの際は是非共お立ち寄り下さい。作並こけしファンは必見、郷愁に浸ること請け合いです。以上。
 ※ これは、もう10年も前の展示ですが、四国松山からは、仙台までちょっとと言う訳には行けない。すごく残念に思います。

「保存の良いこけし」

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 こけしの保存について土橋慶三氏は(事典)(伝統こけしポケットガイド)に知っておくべきこととして、二つをあげている。それは、こけしの材料である木地の性質を知ること、こけしの顔や胴摸様を描くために使っている染料の性質を知っておくこと、と書いている。 
 別の書物に、こけし愛好家は入手したからには、そのこけしの保存について責任を持つべきであると書いてあるのを見たことがある。新品は勿論、中古や古品を入手した時も全て同様に、それ以降のこけしの身上を守るべきであろう。
 だからといって、入手して直ぐ仕舞い込んでしまうのでは、何のために収集しているかわからない。こけしはこけし愛好家にとっては、鑑賞のための入手だからである。
 まず、最初の木地の性質であるが乾燥が十分であるかどうか、こけしのよっては暖房のある所に置いたりすると、急激に水分が蒸発して割れることがあり、また落下によるキズやカビにも注意が必要である。
 次に染料であるが、一番弱いのが紫で、黄、青、赤、墨の順で、墨が一番最後まで残っているとされている。
 退色を防ぐには、太陽光と蛍光灯を極力避ける必要がある。私の場合、入手したこけしはできるだけ蝋を拭き取って、数か月は見える所に出しておく。そして場合を見はからって茶箱やダンボールに仕舞っている。仕舞い込んだこけしは出しているこけしと交替したり、梅雨明けなど定期的に出して拭くようにしている。
 写真は、私の数少ない古品の中から最も保存の良いこけしである佐藤雅雄のこけしを見て頂く。このこけしは紫、黄に加えて、赤ではなくピンクが使われている。そのいずれの色も全く褐色にしていないのは驚きである。このこけしは、いったいどんな道を辿ったのだろうか。以上。
 『こけし手帖』545号 小川一雄氏著より。
 ※ 我が家のこけしは、恥ずかしいが、全て部屋の棚に並べ、一日中、並べて鑑賞している。私の一番幸せの時間である。

「渡辺和夫の小寸こけし」

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 『こけ仕手帖』544号より
 昭和50年代の渡辺和夫こけしのほとんどは、古くからの収集家や業者が競って和夫のところに古品を持ち込み、これに応えた復元ものといってよい。古作の味をつかむのに長けていた和男は、またたく間に人気者になったのである。
 昭和46年からこけしが世に出たとされているが、未だに見かけることなく過ぎている。初期作はどんなこけしだったのだろうか。興味は尽きない。いわゆる本人型と呼べるようなこけしが出たことがあるだろうか。 
 写真の小寸こけしは、昭和57年6月の作である。右から3寸、3.5寸、2.3寸。松屋での忠蔵庵の催しで入手した。1本たりとも同じものがない数10本から、3本並べて見られるように選んで見た。こんな小寸だと自由に作りこなすため、面白いものができる。これらの作品で一番気がつくことは、和夫の色彩感覚が秀れているということである。
 右は赤を基調にして、緑を従に、中央は紫、黄色が主、左は赤、緑、胸の部分に黄色のアクセントが入る。配色が素晴らしい。表情もそれぞれ悪くはなく、遊び心で作られたかのようなこけしである。
 和夫は小寸物を得意としていたようで、その後も良く見かけた。全て寸法を揃えて作られた時より、この時の寸法まちまち、形まちまち、描彩まちまちが私は好きである。
 以前、「渡辺和夫のこけし」を書かせて頂いた、柴田長吉郎氏による追悼文に併せて、昭和50年代のこけしをお見せすることにしたのである。何分にも紙面が少なく、いいたいことが書けていないので、また駄文を追加したのである。以上。小川一氏著。
 ※ 土湯系こけし工人・渡辺和夫(昭和15年~平成17年、享年65歳)昭和46年より佐久間芳雄について木地修業。木地描彩ともに優秀で、若手に似ず古い土湯の味を充分にあらわしたこけしで、木地描彩ともに優秀であった。
 

小林吉太郎のこけし

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 『こけし手帖』平成18年7月 546号〈例会ギャラリー〉鈴木康郎氏著より。
 例会の楽しみの一つに古品の入札がある。出品者の好意、幹事の皆さんの努力に大変感謝し、今後も続けられることを期待している。今回は例会の入札で手に入れたこけしを中心に山形系の代表的工人の一人である吉太郎のこけしを紹介したい。 
 写真の右端はいわゆる「赤湯手」の吉太郎5寸。平成10年10月例会の入札品。この頃例会では武井武雄氏と同時期に活動した蒐集家のこけしが半年ほどに亘って出品された。その中でこれは是非と思って落札した。いかにも吉太郎初期の作らしい迫力のある表情と小ぶりの頭に細めの胴のバランスが見所。製作時期大正末期との推定のようだ。
 右から2番目は平成15年11月の例会で入手した8寸9分。保存の悪さが敬遠されたようで運良く入手できた。頭がやや角ばって表情鋭い。昭和一桁の作ではないかと考えている。この時には久四郎名義の木地山系こけしも出品された。 
 続く2本は友の会での入手品ではないが、こちらも蒐集家の努力で良い状態で保存されてきたこけしである。幸いなことに今は自分のこけし棚に並んでいる。出来るだけ入手した時と同じような状態で引き継がれるよう気をつけたいと思っている。
 左から2本目は昭和12年頃の6寸5分。いたや材のようだ。表情鋭く気に入っている1本。底に「こけし娯屋」のシールが貼られている。中屋惣舜氏の旧蔵品である。
 左端は「米沢市小林吉太郎63才」の記入がある。昭和16年頃、晩年の作だがそれなりに引き締まった表情である。こちらは「痴娯の家コレクション」にあったものである。以上。
 ※ 山形系こけし工人・小林吉太郎(明治12年~昭和18年、享年65歳)

岡崎幾雄のこけし

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 『こけし辞典』平成18年8月 547号 「例会ギャラリー」 河野武寛氏著
 岡崎幾雄は昭和10年2月、蔵王高湯の能登屋岡崎嘉平治の長男に生まれる。蔵王高湯系の始祖・岡崎栄治郎の兄の久作を曽祖父にもち祖父栄作、父嘉平治と続くこけしの名門の出である。能登屋のこけしは艶麗絢爛な作風として有名だが幾雄のこけしも同様である。昭和24年に同系列の小野川温泉・岡崎直志について木地を習った。(直志は栄作の弟久太郎の娘婿)昭和25年栄作没後、土産物屋兼酒屋の能登屋の経営を受継ぐとともにこけしの製作を始める。昭和31年より蔵王の仙台屋にある栄次郎の写しを作り好評を得た。
 その後店が多忙の為こけしの製作本数は減少した。昭和41年10月にろくろを焼失してから一時期製作を中止していたがその後他人の木地に描彩することで製作を続けている。木地を挽いたのは梅木修一、田中恵治など5名と思われる。昭和55年頃に茶房「栄次郎」を開店した際、店内にロクロを据え田中恵治が木地挽をしていたが恵治が郷里(米沢市綱木)に戻ってからは梅木の弟子(今野)が挽いている模様。
 平成13年第43回全日本こけしコンクールでも活躍している。最近は平成16年の第50回全日本こけし祭りで最優秀賞の文部科学大臣奨励賞を受賞するなど現在も良い作品を作り続けている。いわば現代版の渡辺キンといえよう。
 山形県こけし会の副会長を務めているほか、岡崎昭一や田中敦夫が亡くなり寂しくなった蔵王高湯系こけし工人会の重鎮としても活躍しておりこけし界の発展のために多大の貢献をしている。
 今回の写真は初期の栄治郎型と栄治郎型製作以前の作品、ならびに以後の昭和30年代の作品と思われるものを展示しますので比較して見ていただきたいと思います。(敬称略)参考資料「こけし辞典」以上。
 ※ 蔵王系こけし工人・岡崎幾雄(昭和10年~)昭和24年叔父岡崎直志につき木地を終業。わが家にも絢爛豪華な幾雄こけしが数本並んでいる。すごく存在感がありますね。
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