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Channel: こけしおばちゃん
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「全日本こけしコンクール」 

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「第59回全日本こけしコンクール」の各賞の記載された新聞が送られてきた。 
 私は、毎年宮城県白石市のこけしコンクールに参加しているが、今年は足腰の痛みがあるので参加できなかったが、こけし仲間の何人からは、電話を貰ったり、お手紙を頂いた。嬉しいが、すごくすごく残念でたまらない。
 今年の全日本こけしコンクールの最高賞(内閣総理大臣賞)は、弥治郎系・高田稔雄工人(44才)の「幸大型8号」でした。高田工人は、白石市の伝統こけし工人後継者育成事業で初の最高賞受賞者となったのです。師匠は、弥治郎系・佐藤慶明工人とのこと。私は、昭和55年頃から慶明こけしが大好きで、白石を訪ねたときには、必ず工房を訪ねていた。ところが、佐藤工人は一昨年、奥様が亡くなられてとても残念だったのですが、そして慶明工人ご自身もご病気との事だったのです。今回の高田工人の受賞は、とても嬉しく、早速お喜びのお手紙を書きました。おめでとうございます!
 弥治郎系・佐藤慶明工人(昭和11年生まれ)は、弥治郎系の名工といわれた、今三郎の長女・キクの長男・佐藤辰雄は兄です。その辰雄工人は、佐藤幸太、今三郎型の後継者で木地描彩とも第一人者であったが平成21年亡くなられた。その兄・辰雄について修業した慶明工人も、今三郎型、幸大型を作り、華美で木地描彩とも優秀で人気が高い。私は大好きな工人です。写真△蓮∈2鷦泙靴森眦長人の「幸大型8号」です。

「想いの深いこけし」

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 『こけし手帖』平成18年9月号 548号 吉田博人氏著より
 若くして戦歿をしてしまった遠刈田工人の一人、我妻市助を取り上げてみた。
 叔父、我妻吉助は、兄弟子となるが、もし生きていたならば、かなりの弟子を取り、こけし界に名を残したのではないだろうか? こんなことを考えると、夢が大きく膨らむ。
 青根温泉に大正10年に生まれ、昭和12年に佐藤好秋に師事、15年に渡辺鴻氏に依り、「第一回頒布のこけし」として紹介されたが、その後は、軍需用品を作り、翌年応召、19年戦死、それ故、製作時期は4年余り、この頒布で、かなり出回るも、戦争中に焼けたものもあり、遺作は、それ程多いとは、思われない。特徴として頭の長いものが多く、描彩は安定しておらず、同時期でも、好みにより左右されるだろう。
 このこけしは、鴻頒布の8寸と思われるが、収集に興味を持った頃、昭和42年、新宿で、一目ぼれで手に入れた。当時は、学生運動の最盛期で、何か気持ちがすさんでいたような記憶がある。又、こけしに関する知識も(勿論工人に関しても)無く、フィーリングで、購入したと記憶されている。後日発刊される木の花、創刊号(49年5月)で戦没工人と知る位の知識であった。
 今改めて眺めてみると、昭和15年の時代背景が感じられる。20歳と言う年齢は、先の大戦突入寸前、何か切なく、虚脱感を感じる反面、自己主張している上目遣いの眼、何か自分の中に共通する何かが有り、引き合うものがあったのかも知れない。想いの深いこけし達の中の一本をギャラリーに選んでみた次第です。548号「例会ギャラリー」より。
 ※遠刈田系・我妻市助(大正10年~昭和19年、戦没、享年24歳)想いの深いこけしです。

「洒脱な松田初見こけし」

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 『こけし手帖』平成18年11月 550号より
 明治34年鳴子に生まれる。12歳(大正2年)の時、高野幸八工人の弟子となり木地修業を始める。実際の指導は兄弟子の鈴木庸吉工人の指導を受けたといわれる。7年の修業を収め、19歳(大正9年)で独立し鳴子で開業する。その後、仙台及び湯沢の木工所で3年間程働き鳴子へ戻る。
 写真右のこけし(9.3寸)は、昭和15年(39歳)の作と思われる。
 初見工人のこけしは70年近くの長期に渡り製作されている為、戦前と戦後では大きな差異が見られる。
 戦前の特徴は前髪の後のふくらんだ形、横鬢は外側ほど長い。特に目立った癖は無く、画描は整った表情と洗練さをもった洒脱な上、明朗な張りのあるこけしが特徴です。
 写真右は、一筆目に眼点、前髪の後のふくらんだ形、横鬢は外側ほど長く、面描は整った表情とあかぬけており嫌味が無く左右対称である。肩は量感のある古鳴子と思わせる。胴は直胴で胴模様は写実的な張りのある鳴子伝統の菊である。何時まで見ていても飽きないこけしである。
 文献によりますと鳴子でロクロ線に緑を最初に使用したのは初見工人が最初といわれる。写真右側では明確に識別できないが上・下のロクロ線に僅かな緑線がのこっている。
 写真左から2番目は初見工人76歳作の7寸で、隣りは30歳代後半のこけしと見比べて頂くと大きな変化に気づくのは私だけであろうか。全体のバランス、表情はあかぬけて嫌味が無く、胴模様は張りがあり素晴らしい。左側は、長男の三夫工人の一尺です。
 初見工人と三夫工人のこけしを木偶相聞(植木昭夫著)に掲載された昭和15年頃の一尺こけしと見比べてください。弟子には熊谷正工人と菅原直義工人がいます。以上。「例会ギャラリー」より。田中厚志氏著。

平賀一家(謙蔵・多蔵・謙次郎)のこけし

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 『こけし手帖』平成18年12月の「例会ギャラリー」平岡俊夫氏著より。
 私とこけしとのお出会いは20数年前の家族旅行に始まり、作並温泉に宿泊の際、家内が土産に手にしたこけしが「謙次郎」の作で、以来私の方がこけしに傾注している。私にとって「作並こけし」は思いの深いものであると共に古い時代の面影を残す興味の尽きぬこけし達である。
 今回は最近入手した謙蔵、多蔵そして小川会長よりお借りした謙次郎の作品を取り上げた。謙蔵は明治20年生まれ、同30年父と共に作並に移住、34年山形の山形の小林倉吉に入門、45年作並に戻り開業、作並系の祖となる。
 右端は謙蔵の57歳(昭和17年)の作であり描彩を止める直前のものかと思われる。既に、中風を病み、昭和12年から木地は挽いておらず、応召前の多蔵の木地である。平賀一族の戦前作は判別が難しく、鴻・研究ノート更に木の花の鑑別法のお世話になった。右二本は署名のあるものに似ているが、謙蔵作は前髪が決め手となった。多蔵は大正13年父謙蔵につき木地修業、昭和5年、弟謙次郎が木地を始めた折、一旦廃業したが、謙次郎が兵役につくと木地を再開、少数のこけしを残した。昭和16年応召、18年1月南方戦線で戦没する。32歳であった。真ん中は多蔵30歳(昭和16年)の作である。前髪・カニ菊の第一筆目で識別できる。応召前の緊張感の中での作であり、先行きを暗示させる寂しげな表情である。
 左端は謙次郎作、大正7年、謙蔵の次男として生まれる。昭和5年から父につき木地修業、昭和13年独立、14年出征、16年帰郷再開する。写真は鹿間時夫著「こけし・人・風土」で謙蔵13年作とした写真の現物である。緊張感のある表情、豊かな鬢飾り大きなツン毛が印象的である。
 今回の発表に当り、先人達のレポートを読み返したが、研究すればする程奥の深い系統である。更なる探求欲を刺激する。こうした伝統を守る平賀一家三代の益々の活躍を祈念して稿を終えます(敬称略)以上。
 ※ 作並系の平賀一家は、現在、平賀輝幸工人(昭和47年生まれ)がこけしを作っている。父、謙一(平成19年没)、祖父、謙次郎(平成24年没)。ご活躍を応援したいですね。

渡辺定巳・忠雄のこけし

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 『こけし手帖』平成19年1月号 552号「例会ギャラリー」橋本永興氏著より。
 定巳は大正6年生まれ、昭和42年すでにこけしを製作していた実弟、渡辺等から教わり、昭和43年から製作を始めた。
 写真の右側は定巳の作品7寸、昭和43年7月の作、同年3月よりこけし製作を始め、まだ粂松、由吉、米吉型を模索しながらの時期で初作に近い作品。顔の表情は等に似た優しい表情である。胴模様は粂松に似た型。左側は5寸同年代米吉に似た胴模様。二本とも木地が土湯系こけしの伝統に則ったバランス良い出来である。以後返し轆轤模様のこけしも作った。
 忠雄は昭和43年から義父定巳について製作の修業を始める。
 写真△留γ爾話虱困虜酩6寸、昭和51年作、友の会の頒布品である。その当時二代目虎吉に陶酔していた時期で、このこけしを見て土湯にも凄い工人が出現したものだと歓喜した。眼光鋭く赤と緑の返し轆轤線が鮮明で印象深く脳裏に刻まれた作品。
 その後友の会とも長いお付き合いを戴き各コンクールに受賞され土湯のこけし発展の為頑張られているのを見て尊敬する。右中は5寸前記の最近作、土湯こけしの原点を捉え、忠雄の長い経験を積み重ね独自の作風を切り開いている、八寸髷(まげ)、左5寸太子型兜、左端3.5寸太子型笠は忠雄の色々変わり型作品。我々を楽しませてくれる。以上。参考文献「こけし手帖546号、辞典(東京堂)、ポケットガイド各版、ふくしまのこけし」。

「佐藤佳樹のこけし」

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 『こけし手帖』平成19年4月号 4月号 「例会ギャラリー」より。国府田恵一氏著。 
 先月突然亡くなられた佐藤佳樹さんの遺作展が津軽こけし館で開催されているのに合わせて、例会ギャラリーでも佳樹さんのこけし(幸兵衛型)を取り上げることにした。
 佳樹さんは佐藤善二さんの長男で昭和24年の生まれ。46年から木地修業を始めて、こけしは48年から作っている。但し、善二さん生前中は幸兵衛型は作っていない。善二さんが亡くなられたのは昭和60年で、それ以降、佳樹さんも幸兵衛型を作るようになった。
 手持ちの佳樹さんの幸兵衛型を眺めながら、これを四つに分けてみた。
 ⑴ 幸兵衛善二型
  昭和60年末から61年の始め頃に作った幸兵衛型で「幸兵衛善二型」と署名している。写真の右2本がそれで、善二さんのこけしを写したものである。もっとも、右端のこけしは幸兵衛のこけしを元に善二さんが作り出したもので、善二さんは「幸兵衛型」とは著名していない。いずれにせよ、佳樹さんの筆致は太く、幸兵衛型の初期作として力の入った立派なこけしに仕上がっている。
 ⑵ 善二幸兵衛写し 
  善二さんが量産した、眉が独特の後期の幸兵衛型を写したもの。写真の右から3、4本目は昭和61年末から62年頃の作で、初期作に劣らず若さが溢れた良い作品となっている。
 ⑶ 幸兵衛写し
  幸兵衛こけしの原品や写真によって作った写し。善二さんが作ったもの以外にも色々と挑戦している。写真左から2本目の胴下部に草模様が描かれたものは「こけし加々美」に掲載されているものの写しである。
 ⑷ 幸兵衛風佳樹型
  幸兵衛のこけしを元にしているが、そのまま映したものでなく、描彩等に佳樹さんなりの工夫が入っているこけし。写真左端のようなこけしで「幸兵衛型」の著明は無い。以上。

佐藤治郎のこけし

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 毎年12月例会でその年の物故工人のこけしを展示するとともに解説を行っている。平成18年の物故者は珍しくも、佐藤治郎(4月20日没)一人だけだった。今回は、私がこけしの展示と解説をさせて頂いた。
 昭和40年代の遠刈田はまだ明治生まれの丑蔵、文助、護、好秋などが健在で、治郎はどちらかといえば目立たない存在だった。
 人となりは手帖547号の柴田長吉郎氏の記事をご覧頂くとして、この際、例会で展示したこけしを写真紹介することも意味がある様に思うのである。
 写真右は、円吉の梅こけしの復元。この復元は昭和38年からで、38か39年作、署名のみ、2本目3寸、署名の他五十一歳と書かれている。昭和40年の作。4本の中では、表情が最も良い。文助を思わせる出来である。3本目4寸たちこ、同様に五十六才、昭和45年作。4本目6寸、五七才、昭和46年作。治郎らしい境地のこけし。見られるのはこの辺りまでだろうか。左端は円吉の昭和14年頃の作、ご参考になれば幸いである。以上。『こけし手帖』555号より。 小川一雄著。
 ※ 遠刈田系こけし工人(大正4年~平成18年、享年90歳) 故佐藤円吉の養子で、彼独自の模様のほか胴のくびれた梅こけし(円吉型)をつくる。真面目な性格で年齢の割に地味な存在となっているが、作品のベテランの味は尊い。

「佐藤春二昭和29年作」

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 『こけし手帖』平成19年5月号 556号 「例会ギャラリー」より。
 今回は昭和29年作の佐藤春二9寸を見て頂くことにする。著名な収集家のこけしを紹介した写真集に戦後の作品が掲載されることは稀で、あったとしても、遊佐民之介や横山政五郎など戦前作が極めて少ないが、ない作者の作品に限られるのである。
 いきなり余談で恐縮であるが、このこけしは数年前「たつみ」で某氏の売り立てがあり、入手した。この催しは取り立てて宣伝されず、口コミで知れるところとなった。私は聞いてすぐに駆けつけたのだが、売り始めてから3日間ほど経っていたようである。先客は何人位だったのだあろうか。こういう時は気持ちが高揚するのである。
 気を取り直して選んだこけしのなかにこのこけしがあった。中古品や古品の場合、良いものから順に売れていくというより、割安のものから売れていく可能性が高いことと、値段の高いものを買う層は限られているため、どうかするとよいものが残っている場合がある。このこけしの場合、昭和20年代の春二に目をつけていた私には飛びつけるこけしだった。
 春二はこの頃は村会議員を務めており、こけしは少ない。(こけし美と系譜)に同じ29年作の中屋氏蔵が載っている。「この頃までは瞳の大きい可愛いものが多く」と解説されているものである。他の文献を当たって見ると(愛こけし)(植木昭夫)に29年作、30年作が載っている。
 私の作品と中屋氏蔵は寸法が近いせいか、全く同趣であるが、植木氏蔵の7寸は胸部が旭菊でなく襟になっている。
 34年頃からこけしを多く作るようになったということなので、戦前と量産されてからのこけしを繋ぐこけしとして、私はこのこけしを注目して見ています。以上。小川一雄氏著より。
 ※ 弥治郎系こけし工人・佐藤春二(明治36年~昭和57年、享年79歳)は弥治郎系伝統こけしの第一人者。華麗なこけしを作り、現在は、各弟子たちが、春二型、父の幸大型など、各弟子たちが作り続けている。

「阿部常吉のこけし」

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 『こけし手帖』平成19年6月号 557号「例会ギャラリー」より。
 収集を続けていると自然に好みのこけしが手元に集まってくる。私の場合は昨年のギャラリーでご紹介した小林吉太郎などがそれであるが今回紹介する阿部常吉も好きなこけしの一つである。
 阿部常吉は明治37年生まれ大正期からこけしを作り始め、平成3年に亡くなるまでほぼ間断なく作り続けた。大きな瞳の無邪気な表情、枯れのある太い胴に変わった花模様、個性的なこけしである。父の師匠の常松は土湯から青根、蔵王を経て温海に定着したとのことだが常吉のこけしも混血の魅力を引き継いでいる。
 写真,蓮比較的大寸のこけしで中央が尺。右は常吉としては初期、父常松のこけしを忠実に写していた時期の作ではないだろうか。中央は昭和10年頃、量感があり、表情も独特である。左は昭和13年頃、頭は丸くなり明るい表情である。
 写真△枠羈單小寸、中央が約6寸である。ろくろ線などが入らずあっさりとした花の胴模様、凝視度が強い。右は昭和5年頃の作であろう。
 常吉のこけしは何本か持っていても、更に集めたくなる。そんなこけしである。一本一本それぞれに個性があって、一定以上の水準の出来である。これからも集めていきたいこけしである。以上。(文中敬称略)鈴木康郎氏著。
※ 蔵王系こけし工人・阿部常吉(明治37年~平成3年、享年87歳)蔵王系、山形系などを加味して温湯独特のユーモアあふれる独特の型を完成した。ボリューム感のあるこけしは人気がある。現在は、阿部進矢(昭和12年生まれ)が活躍している。

「毛利専蔵のこけし」

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 『こけし手帖』平成19年12月号 563号「例会ギャラリー」より。
 津軽系こけしは、単純素朴で、津軽の風土によく溶け込んでいる気がする。木地師と描彩者が、別人の場合が多く、木地を挽いた工人名となっているのも、他の系統と違うところだが、それが又面白い。ギャラリーに毛利専蔵を取り上げたのも、そんな背景があるのかもしれない。
 専蔵は、古い時代の木地師、毛利茂太郎の長男として大正5年11月に生まれ平成16年1月86才にて亡くなられている。14才で父に付き木地修業するも、盛秀太郎の影響を受けたこけしを作っていたが年々大きく変化していき、戦後は津軽地方独特のひなびた泥臭さは無くなり、近代的な表情となっていき、少しさびしさを感じている。描彩は妻「たま」で専蔵名で店に出しているといわれているが、木地に関しては、専蔵が挽き描彩は(顔は、専蔵ー昭和45年当時ーが描いていた)専蔵が葉を書き、妻が花を書く、又はその逆というような、共同作業的で、山谷一家なども、誰がどこを書くという決まりが無く、持っている筆の色で、花弁や花や草になった混描であったようだ。
 最初の文献は、橘氏の「こけしと作者」で、写真での紹介は、鹿間氏の「こけし・人・風土」である。
 父茂太郎のこけしは、現存していないといわれていたが、木村弦三コレクションに4本有ったことは、喜ばしいことであり、当会でも平成9年4月に今晃作で頒布した記録がある。
 6寸、戦前作で、明らかに盛秀太郎の影響が見て取れる。
 6寸、戦後作26~27年頃中途半端な時期で、変化の始まりかけた頃作。まだ表情はあどけない。
 7寸、50年3月入手、描彩から見ると30~32年作。
 7寸、昭和45年作この頃になると表情は固定化し混描分業化。
 ゼ棔⊂赦50年入手。
 8寸、昭和60年入手。
 他に平成9年今作、茂太郎型。昭和54年秋泥土の中から出土の4本の中の1本復元を展示。以上。吉田博人氏著より。

4工人の「カメ」こけし

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 『こけし手帖』平成19年8月号 559号「例会ギャラリー」より。 
 今年の正月の「友の会」では運良く盛美津雄工人の「カメ」を入手することができました。
 今回はこの「カメ」作品を原として作った4人の工人のこけしを皆さんに見て頂くこととします。向かて左から奥瀬鉄則、奥瀬陽子、奥瀬恵介、盛美津雄作です。奥瀬鉄則工人の作品は「写し物」といっても現物をそのまま写しているのではなく自分流にアレンジしています。陽子工人、恵介工人もそれぞれ夫、父の作品を手本にしているためか原とは少し離れた出来となています。
 ㈠ 奥瀬鉄則作、14.8僉‥澗Ч人が盛秀太郎戦前作を意識して作り出したのは昭和50年代松からではないかと思います。このこけしもS59、12 26 の書き込みがあります。面描、胴模様は原同じようではありますが原のイメージとはかなり異なったものに仕上がっており、自家薬籠中の物としています。
 ㈡ 陽子作、12.3僉。12・1・1 作 シリアル番号1126 鉄則作に比べると面描が細く女性工人らしい作品になっています。
 ㈢ 恵介作、18.0僉。14・10・24、恵介工人がこけしを作り始めた年の作品で未だシリアル番号は振られていません。初作らしく一生懸命さが表に染み出している作品で好感がもてます。
 ㈣ 盛美津雄作、15.7僉∪構┨人の孫とあって一番原に近い作品です。きつい面描が秀逸で「写し」として成功した作品といえましょう。私としては「こけし這󠄀子の話」のこけしのように胴がもっと太ければより好ましい作品となったのではないかと思っています。(敬称は省かせていただきました。)以上。
 こけし友の会・河野武寛氏著

荒井へ移転後の恒彦工人こけし

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 『こけし手帖』平成19年9月 560号 「例会ギャラリー」より。 
 昭和14年渡辺作蔵工人の曾孫として生まれる。昭和46年より又従兄弟の今泉源治工人の下で木地修業を始め、本格的にこけしを作り始める。昭和50年から平成元年までは旅館経営の為、こけしの製作は少ない。平成2年から3年までは方木田でこけしつくりを再開するが平成8年よりこけし製作を本格的に再開し、渡辺幸典工人の了解を受けてキン型の復元に取組み、荒井へ移転するまでに11回の渡辺キン・シリーズを頒布する。
 写真上は在庭坂の最後(平成12年6月)の頒布、渡辺キン・シリーズ11回目で左が8寸2分(花模様・木地由吉)、右は6寸2分(花模様。木地忠蔵)です。頒布の案内に「道路拡張のため、7月末をもって転居の予定です。」とありましたので平成12年7月に荒井へ移られたと思います。
 荒井へ移られた後の案内によりますと「改めて心機一転、こけしづくりに打ち込みます……」とあり、こけし作りに今まで以上に力を入れていた様子が伺えます。
 写真△蓮荒井へ移転後のこけしです。左から久松キン8寸5分、天江作蔵6寸6分(荒井第1回頒布)、左3.4は本人型7寸、植木キン7寸1分(木地由吉)(荒井第2回頒布)、左5.6.7は鈴木鼓童コレクションのキン7寸2分、8寸2分、4寸1分です。(荒井第3回頒布)。
 平成14年4月の荒井第5回頒布、渡辺キン・シリーズを以ってその後は頒布の案内は途絶えた。
 荒井へ転居した時は丁度還暦を過ぎて間もなくで恒彦工人としては木地・描彩共に最高の時期であった。以上。こけし友の会・田中厚志氏著より。

「小林清蔵のこけし」

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 こけし友の会 平塚俊夫氏著より。 
 私の蒐集品の中で古品第一号となるのが今回のテーマの清蔵こけしです。
 以前、当時のこけしの師匠から譲り受け、押し戴くように持ち帰った一本が写真右の昭和17年頃作の8寸です。旧蔵者の変遷で書込みが倉吉から清蔵と修正されている。暫く押し入れに仕舞い込んでいましたが、山形・作並こけしに興味が高まった頃から顔や胴模様の筆法等から、果して清蔵かしらと疑問が湧き色々と文献やら図録等と首っ引きに調べ始めた。
 保存が今一つの処があり、知識の浅薄さと相俟って甚だ判断に苦しんだ。細身の胴、頭の形状が丸く細長く、割れ鼻は上部がくっ付いた松葉型で幅は狭い。目は繊細でやさしく、小さな紅で引かれた口元は雅である。胴模様は簡素化された倉吉考案の四弁の梅で模様の左右に装飾が付く。
 「研究ノート」には、倉吉・清蔵夫々のこけしの、顔・頭・胴の模様の特徴が詳しく分類されているが、柴田長吉郎氏の胴模様の区分では上部の花の筆法から倉吉のそれとも推察される。又、胴最下部の葉の緑のム形ではその崩しの筆法が倉吉に近い。唯し製作年代から見て清蔵か。昭和15年から19年頃は倉吉・清蔵作が混在し、識別が難しい。
 真ん中は昭和13年から14年頃の清蔵の自挽・自描の7寸、底部に山形「小林清蔵」との署名がある。保
存の良い処から清太郎の復元作と見紛う。自身も先人の指摘に拠り理解を得た。首周りのろくろ線の曲線が判断のポイントとの由。戦後は長男・誠太郎が一人前になった為、ロクロに就かず、木地は誠太郎が挽いたと云う。又、戦後は20本程描彩したとの事である。昭和32年迄清蔵名義のこけしを出していた。
 左は清蔵の弟「栄蔵」の昭和12年頃の作です。某入札会で収得した物です。正末からこけしを製作し、兄清蔵の影響を受けたが、祖母ジュンから祖父倉治の描彩を受け継いでいる。頭が角張り、胴太く面描は大きく素直な筆法である。製作初期の強烈さや力強さは感じられないが存在感のあるこけしである。
 以上。『こけし手帖』平成19年11月号 562号より。
 

「西山憲一のこけし」 

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 こけし友の会 橋本永興氏の「例会ギャラリー」より。
 西山憲一さんとの出会いは、友の会旅行で土湯を訪問した時だった。
 憲一さんの気さくな人柄に触れて、素朴で味わいのあるこけしを収集することがますます楽しみになった。
 写真右は憲一作一尺。当会の抽選で入手した。木地は足踏みロクロで挽いた荒削りで、滲んだ返しロクロ線は素朴さそのものである。顔は目と目、眉毛と眉毛の間が広く、丁寧に罹れ、甘い表情が特徴である。類似のこけしは手帖485号「西屋西山憲一の逝去を悼む」(渡辺格)の写真、植木正子コレクション(昭和30年)に記載されている。手帖518号ギャラリー「勝次と憲一のこけし」(小川一雄)では28年頃の作。
 「美と系譜」に同じものがあり、これらは本人型といってもよい。
 私はこのこけしが西山憲一の作品中で一番好きである。
 写真中は憲一作六寸五分。底の著明は父勝次であるが、写真右をよく見ると目、眉毛の間隔の広さ、前髪の多さ、眉毛の同じ太さの線の引き方がよく類似している。返しロクロ線は一部入っているが木地の仕上げの滑らかさ、底の切り口の綺麗さから写真右より新しい作であろう。
 写真左は西山勝次作六寸一分、昭和15年前後の作。頭の小さい割りにはがっしりした胴、眉毛の太く確りした顔つきである。この型を憲一が勝次型として終生描いている。
 憲一が写真右の本人型をその後も続けていたら、勝次の枠にとらわれたこけしよりも、憲一本人の自由意思で素晴らしい作品を残されていたかもしれない。以上。『こけし手帖』平成19年12月号。563号より。

三本の平賀貞蔵のこけし

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 『こけし手帖』平成20年4月号 567号より
 今年の新年例会の招待工人の一人が作並系の平賀輝幸工人だった。それにちなんで今回のギャラリーでは作並系平賀貞蔵を取り上げた。
 貞蔵は明治30年生まれ、昭和61年88歳で亡くなった。工人数の少ない作並系の代表的工人で大正期からこけし制作を始め中断はあるものの長くこけしを作り続けた。 
 戦前にも多くのこけしが作並温泉土産として売られたようだが収集家の手元に残る古品の数は少ない。入札会でもあまり見かけない。
 そうした中でひやねの入札会で見つけたのが右の尺喫、昭和16年頃の作、両端は接するかどうか微妙な三日月目の鋭い表情のこけしである。まずは貞蔵作として標準以上の作と満足していた。
 次に入手したのが中央の8寸7分である。一見謙蔵の古作と思ったのだがどうも様子が違う。背中を見ると「昔ヨリ小形作並木形子平賀貞蔵作四十三才」とあった。貞蔵数え43才は昭和14年で復活の年である。大正期、謙蔵と共にこけしを制作していた時代を思い起こして作ったこけしであろう。謙蔵初期作と比較すると表情・様式極めてよく似ている。
 そして左は大正期の貞蔵と思われるこけしで9寸9分。筆慣れていないがいわゆる三白眼で異様な迫力が有る。中央の古形との比較から極初期、修業時代の作ではないかと思う。緑の色が濃く、赤もややオレンジがかっていて復活期以降とは染料も違っているようである。
 写真の△廊,亮命臣羆良茣臑△判藉慮蔵の比較である。以上。
 「例会ギャラリー」鈴木康郎氏著より。
 

「癒されるこけし」

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 『こけし手帖』平成20年5月号 568号より
 皆様の中でこけしに癒されたことのない方はいないだろう。最近のこけしは木地の仕上げも描彩も入念にできている。ある意味上手すぎて味わいに欠けるものが多い。
 心休まるこけしとして、まず私の頭に浮かんだのは高橋定助の一連のこけしであった。そこで、今日は定助のこけしを見て頂くことにする。
 手がかりとして(辞典)の高橋定助の項を引いてみた。早くからこけしを作ったが、はっきりしているのは昭和19年1月鹿間氏訪問による自挽きの2本とあり、その時の1本が写真紹介されている。さて、もう1本はどんなものか興味を持ち、(こけし・人・風土)をめぐってみたところ、第97図に(辞典)と違うこけしがあった。
 膨大な収集量を誇る鈴木鼓童コレクションの図緑(愛玩鼓楽)にもなかったので、これ以上溯れないと思いつつ、植木氏の〈愛こけし〉で昭和15年作というこけしを発見した。
 再び(辞典)によれば昭和28年に大沼新兵衛の木地に描いたのが始まりで、斉司、誓、力、俊雄などの
木地に描いたというこ。とで、戦後は全て他人木地であった。昭和41年10月7日老衰のため死去。94歳。
 写真は、86歳作。この頃のものは目も眉も上向き加減で、戦前作に近い。
 写真△留γ爾麓命燭虜突箸任后1Δら2本目89歳作。3本目91歳作。定助のこけしは、(美と系譜)や(愛こけし)に数多く写真紹介されている。さらさらと写生風で、楽しめるこけし達である。以上。 
 「例会ギャラリー」こけし友の会・小川一雄氏著より

「佐藤伝喜のこけし5本」

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 『こけし手帖』平成20年6月号 569号
 佐藤伝喜は、佐藤伝内を父に佐藤勘内を叔父に持つ弥治郎系こけしの名門の出の工人として知られる。兄弟に伝、伝伍がいる。
 残っている戦前の作品は甘美な作風で数が少ないこともあり収集家から戦後の復活・製作再開を待望されていた工人であった。
 昭和32年に若干試作の後、翌33年6月に完全復活し本格的に製作を開始。この時期の作品は大寸物を除くと胴は肩が砲弾型でそれから下が直胴、胴模様は上部が旭菊、中部に赤、紫、緑の3色を使用したロクロ線、下部は緑、赤、緑の順に横点を打ち、その周りを緑の打線で囲む模様になっている。(写真◆
 ところが今年1月に私は今まで見たことの無かった伝喜こけしを新橋のこけし店で見つけた。今回持参の5本である(写真)。これらはセット物と思われる。5本すべての胴底に「昭和33年、6月佐藤伝喜」の著名がある。5本とも胴の形態・描彩が異なっている。向かって右は従来から知られた形だが一番左は肩がこそげて上下のロクロ線の間に旭菊が入り下部には一般に見られる模様が緑でなく赤で描かれている。次は胴中央部がくびれロクロ線に挟まれた胴下部に旭菊が入っている。4本目は中央部が僅かに細くなり中央のロクロ線を挟んで上下に旭菊が描かれているもの。以上。こけし友の会、河野武寛氏著より。
 ※ 実は河野武寛氏は、25年くらい前に、お仕事の転勤で松山に来られていた時、本棚に並べた「4000本こけし」が愛媛新聞に載ったことがあったのです。すごく感動したことを思い出します。

「収集をはじめた頃のこけし」

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 『こけし手帖』平成20年7月号 570号「例会ギャラリー」より
 ここに並んでいるこけしについて、おはなしするような事は何も無いのですが。 
 これらは昭和20年代後半から30年代前半のこけしです。
 新型こけし台頭の時代で、こけしはみんな可愛いです。目が顔の中心か下にあり、眉と目が離れていると子供の顔になるからです。こんなこけしと付き合っていました。(写真 
 その後、盛こけしに出合った時の印象は強烈でした。最初に鳴子に行ったのは、朋文堂のスキー・スクールでした。勿論こけしも目当てでしたが、当時、盛雄さんの家では、上野々にスキー・ロッジを出していました。お店には盛さんが留守番をしておられました。応対に出て来られたご本人がお茶を入れてくださり、そこで求めたこけしがこの2本です。(写真◆膨匹いけ続けた高勘の到達点はこの3本です。
 以上。こけし友の会 宇田川智恵子著より。
 ※ 宇田川さんは、毎年鳴子こけし祭りでは、中心になってお世話をされています。こけし友の会の重鎮で活躍されています。

紀元2600年のこけし

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 『こけし手帖』平成20年1月号 564号「例会ギャラリー」より。
 今年正月の「ひやね」入札会で入手した高亀系のこけしは胴裏に「東京こけし会、第1回現地の集い、2006.7.27」と書かれた焼き印が押されている。こけし辞典によれば「東京こけし会」は昭和15年(紀元2600年)の3月から10月にかけて尺こけしの頒布を行っており、同年7月27日には鳴子にて「現地の集い」を開催し、その時に頒布されたのが今回のこけしではないかと思われる。
 このこけしは焼き印から昭和15年の作と思われるが、署名や前所有者の書き込みなどは一切ない。出品工人名は高橋武蔵となっていたが、同時期の武蔵さんのこけしとは表情がかなり異なるように見える。眼点が大きめで目の位置も高く、若々しく明敏な表情なのである。あるいは若き日の武男作かとも思って正吾さんに聞いてみると、武蔵だろうとのこと。向かって右の眉目が上に流れる筆法は武蔵さん独特のものであり、本こけしの右眉目にも同様の特徴が出ているとのこと。
 またこの時期、武男さんは応召中で、こけしは作れなかっただろうということであった。
 ただ、葉と前髪、横鬢は直次さん(武蔵次男)が描いたのではないかと言う。特に三段重ね菊の一番下の花弁の下にも葉が描かれいるが、ここは本来なら「土」を描くべきところ。武蔵さんはそのつもりで最下段の花弁を下寄りに描いたが、後から葉を描いた直次さんはそうとは思わないで葉を描いてしまった。 そのため何とも窮屈な葉になってしまったのではないかと言う。当時はこけしの描彩も分業で、一本のこけしを複数の工人で描いていたそうである。
 記念に正吾さんに写しを一本作って貰った。「原」に比べると胴がやや太めで短い。右眉目の癖とか、最下段の窮屈な葉などは流石にそのまま写していないが、若々しい表情などは見事に再現されている。
 以上。こけし友の会 国府田恵一氏著より。
 
 

小倉篤と勝志の栄治型

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 『こけし手帖』平成20年8月号 571号「例会ギャラリー」より
 美人の部類に入るこけしとして評価されている大野栄治型を小倉篤と勝志が作っている。親子の面白い時期のこけしがあるので紹介してみたい。 
 本来ならば、父の嘉三郎風の草書体が篤の持ち味であり、栄治の楷書体は難しい(合わないといってしまうと、身もふたもないが)。それ故36~37年作は貴重といっていいだろう。
 大正11年6月1日生まれ、昭和43年10月1日47才死去。20年頃までは嘉三郎型を多く作っていたが、次第に大野栄治の作風を目指し、36年頃は、栄治に匹敵する佳作が多いが嘉三郎風と栄治風の狭間で、苦悩していた。特に妻のフクヨさんが45年5月に亡くなってからは、今後の作風に苦しんでいたようである。 
 小倉勝志は昭和22年11月、篤の長男として生まれ、昭和41年頃より冬場のみ父につき木地修行をした。
 初期の作品は、眼点が右側に流れる癖があり、未だ栄治型をゆっくり見ていないようだが、この頃は20~25年頃の栄治を参考にしたのか、まゆ、眼の描き方が似ているような気がする。昭和43年10月入手、それ故、父 篤が亡くなる寸前の作と思われる。
 栄治は、明治37年生まれ、大正14年嘉三郎の長女はつと結婚、昭和4年北海道へ移住。職人気質で丁寧な仕事は、栄治を愛する収集家が多いこともうなずける。全体的にバランスがよく、首から胴にかけての曲線はなんともいえぬ美しさがある。頭が黒いのは、30~32年頃が、よく作られていた。
 わたしが楽しめる理由のひとつにほほ紅の入れ方、うす紅色にぼかしているところや、えくぼのような、ほんのりとしたかわいさにも興味をそそられる。女性のファンデーションをほほに伸ばすしぐさを、つい想像してしまうのは、わたしの考えすぎか? 以上。こけし友の会 吉田博人氏著
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