熱心な収集家は、戦争中もよくこけしの里を訪れていた。食券を持っていても食べさせてくれる食堂などありっこない山里の訪行はよほどの準備をしてゆくか、空腹を覚悟のことでなければならぬ。
ある工人は『そんなに苦労してでも俺のきぼこを欲しいとわざわざやってくる人に、たっぷりなにか食わしてやりたい』と、そば作りをはじめた。自分たちの食糧だって不足がちの統制下のことだ。人手 も少なく、荒れほうだいの他人の山を借りうけ、本業の木地職は捨ててしまったかのように、山を拓き種をまく。女房も幼い男の子も、不足顔ひとつせずに彼を手伝った。やがてそばは収穫された。一家の食糧もこれで補われた。が、家族に食いほうけることを戒めた。当然、彼を訪れるこけし収集家は、たっぷり馳走になり、おまけにそば粉を土産にもらって帰ることもあったが、こけしを持たされることはまず稀だった。『今日は、とにかく食ってゆけ。きぼこなんざあこのあとたんと作っておくから』と言った。
『こけし手帖』274号 「こけし・あれこれ」より。
※ こけし工人とそば作りで思い出すのは、上記のこけし工人とは、関係ないのですが、土湯系こけし工人・陳野原幸紀とそば作りは有名ですね。、こけしとそば作りの二足のワラジをはいて活躍している。私は、こけしコンクールに参加した時は、必ず、土湯温泉の陳野原工人のお店「ひさご」に立ち寄り、山菜蕎麦を頂いて帰ります。工人自らそばを打ち、朝採りの山菜の天ぷらが乗っかている美味しいお蕎麦です。