昭和59年11月発行「こけし手帖」より。文・宇田川智恵子。
話題騒然であった『佐藤英太郎の世界』を友達と見に行った。その友達はこけしに「伝統こけし」とその他のこけしがあることぐらいは知っており、家に四,五本のこけしを置いているがそれ以上ではなく、興味は「陶」である。こけしに対する感想である「あのこけし(英太郎型)を手元において、三年、見厭きなければ、私には本物だから、値段は高くないと思う。けれど、私の鑑識眼では、今それを見分けられない。どうしても欲しいと思って求めた壷がある日、突然、どうでもいい物になってしまうことだってあるから、何ともいえないが、本物なら一本ほしい」というものであった。私が知りたいことは、英太郎型こけしを求めた人達の中に「こけし」そのものだけに魅せられ、その後に英太郎本人のちらつかない人がいたのだろうかという事である。
わが家の床の間に置かれている二尺のこけしは、来客(こけしに関係ない)の話題になる。その感想は「こういうこけしもあるのですか」というのである。「こういう」とは、今までのこけしに対するイメージと違う雰囲気を持つ、床の間で「さま」になっているという意味である。
このこけしは普通の価値のこけしであるが、工芸品に価すると思っている。(残念ながら、私の目が選んだものではなく、眺めていれば、作者の顔がこけしに重なる)。
目を肥やし、物をよく見、作者名にとらわれず、手の届く範囲(人それぞれ違うが)の価格のこけしの中から、工芸品の価値に匹敵するこけしをさがし出す、努力も大事なのではないか、そんな「思い」もあって良いのではないか。以上。