『こけし手帖』平成18年9月号 548号 吉田博人氏著より
若くして戦歿をしてしまった遠刈田工人の一人、我妻市助を取り上げてみた。
叔父、我妻吉助は、兄弟子となるが、もし生きていたならば、かなりの弟子を取り、こけし界に名を残したのではないだろうか? こんなことを考えると、夢が大きく膨らむ。
青根温泉に大正10年に生まれ、昭和12年に佐藤好秋に師事、15年に渡辺鴻氏に依り、「第一回頒布のこけし」として紹介されたが、その後は、軍需用品を作り、翌年応召、19年戦死、それ故、製作時期は4年余り、この頒布で、かなり出回るも、戦争中に焼けたものもあり、遺作は、それ程多いとは、思われない。特徴として頭の長いものが多く、描彩は安定しておらず、同時期でも、好みにより左右されるだろう。
このこけしは、鴻頒布の8寸と思われるが、収集に興味を持った頃、昭和42年、新宿で、一目ぼれで手に入れた。当時は、学生運動の最盛期で、何か気持ちがすさんでいたような記憶がある。又、こけしに関する知識も(勿論工人に関しても)無く、フィーリングで、購入したと記憶されている。後日発刊される木の花、創刊号(49年5月)で戦没工人と知る位の知識であった。
今改めて眺めてみると、昭和15年の時代背景が感じられる。20歳と言う年齢は、先の大戦突入寸前、何か切なく、虚脱感を感じる反面、自己主張している上目遣いの眼、何か自分の中に共通する何かが有り、引き合うものがあったのかも知れない。想いの深いこけし達の中の一本をギャラリーに選んでみた次第です。548号「例会ギャラリー」より。
※遠刈田系・我妻市助(大正10年~昭和19年、戦没、享年24歳)想いの深いこけしです。