『こけし手帖』平成21年7月号 582号「例会ギャラリー」より。
昭和5年3月1日、下駄職人惣太郎次男として生まれる。吉郎平系列松之進家である高橋広平につき昭和28年6月より木地修業を始める。こけしの方は、昭和35年3月より、佐藤富雄の手ほどきにより習ったためか、文助型に近く、胴模様は文助様式である。
昭和48年ころより林平広平系統の模様になりそのまま定着する。
平成10年9月13日に68才で死去。林平幸平型に一般型を加味した作風であるが、昭和40年前半までのものを紹介したい。
右より㈠番目は、31才。昭和35年4月頃作で若手工人組合に入ったばかりの頃父親が工人でない為、伝統上問題があるとの理由で組合になかなか入れてもらえなかったようである。
㈡番目は、35才。昭和39年11月作、重ね菊がゆったりと描かれている。首と裾の轆轤が赤く太い2本線。
㈢番目は、製作時不明。㈡と様式は似ているも眼点は大きく、顔全体も幾分大きく描かれており、重ね菊の芯に丸味があり、首と裾の轆轤が3本で細い線を挟んでいる。
㈣番目は、38才。昭和42年4月作、文助の枝梅模様。木地は古い文助型の轆轤型。この枝梅は、いち(友治の妻、松之進の母の得意とする描き方)である。
その後、猫鼻や、胴は梅くずし、または松之進のタ泙虜ずし、扇型重ね菊で、扇が巾広いもの、首の細い広平型など、目が右下がりになっていく。
疑問点として、林平広平型と文助型の区別は、名前のサイン方法、今朝吉の「吉」の字が土(つち)か士(し)か?底の木取りで丸爪か切り取りか、頂天模様で手柄か旭日手柄か?解明してみたい。以上。
こけし友の会 吉田博人氏著。
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