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Channel: こけしおばちゃん
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「樋渡治一のこけし」

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 『こけし手帖』平成21年1月号 576号「例会ギャラリー」より。
 樋渡治一のこけしは鹿間時夫著「こけしの鑑賞」に掲載されているがこれ以上の解説文は他にはない。治一は明治39年生、大正8年高橋兵治郎につき木地を修業する。昭和7年治一名義で弟樋渡連治描彩のこけしを少量作り、その後漆器の蒔絵師の樋渡辰治郎に描彩を依頼して13年頃まで作った。
 写真左端は樋渡治一木地、樋渡辰治郎描彩作と思われるこけし5寸・昭和10年頃の作。二重瞼で、端正な顔つきと、肩の張ったのが特長。特に戦前の物にしては木地の仕上げは丁寧である。 
 もう一方は治一木地で樋渡(大類)連治のこけしがある。頭が大きく横に張り、撫で肩が特徴。「鑑賞」にはラグビーこけしの由来の記述がある。
 写真右端は佐藤秀一5寸・昭和61年作。左端と同型のものの写しであろう。右2本目は三春文雄作平成20年6月作。三春文雄作平成20年6月作。三春さん話では治一型製作の許可を秀一さんに取ったが、更に治一の実家のご子息さんにも戴いたという。あまり治一の古品はなく書物など見て、小寸は一重瞼で7寸ぐらいは二重瞼の2種類を作る。
 写真3本目は高橋雄司作6寸・昭和60年作。雄司さんの話では、らっこコレクションの本にある父兵治郎の写真を見て作った。その本の解説で橋元四郎平氏はこの兵治郎こけしのロクロ線は治一こけしの原型になったのではないかと解説している。参考文献「こけし辞典」「こけし鑑賞」「らっこ」
 以上。 東京こけし友の会 橋本永興氏著より。   

もう一本の大正期 盛こけし

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 鳴子系利右衛門系列(高勘)の工人が作るこけしに「大正型」がある。この大正型は西田記念館に所蔵されている大正期の高橋盛こけしを「原」として昭和43年秋に遊佐福寿さんが復元したものである。
 ところで福寿さんの昭和44年作の大正型に胴中央の添え葉が左右それぞれ対になっていて、他の時期の大正型とは様式が異なる。「古計志加々美(原色版)」には同様式の盛こけしが掲載されており、44年の福寿大正型はこれを見て作ったものと推測される。 
 「加々美」では単色版で西田大正型はを、そして原色版ではもう一本別の大正型を掲載していたのである。
 一昨年の秋のある日、ネットオークションを見ていると古そうな大正型こけしが出品されていた。胴の底書きから昭和15年入手とある。まさか加々美の現品とは思わなかったが、掲載写真の胴模様を子細に検討してみると同じものと思われた。勘治のこけしは別としても、盛の大正期のこけしが出てくることは希有であり、このこけしを入手出来たことは幸運の一言に尽きる。なお大正期の盛こけしの胴模様は独特のものであり、この手のものは、本品(加々美原色版)、西田蔵品(加々美単色版)、橘蔵品(古作図譜)の三点しか確認あされていない。  
 このこけしの写しを柿澤是隆さんにお願いした。写真△榔Δ今回のギャラリー用、左は昨年の名古屋こけし会頒布品(黄胴)、写真,慮局覆噺比べて頂きたい。太目の胴、ふっくらとした頬に優しい眼差し、豊かな時代を象徴した大正型である。
 原品との雰囲気の違いは、もう時代の差としか言えないものなのであろう。以上。
 『こけし手帖』平成21年4月号 579号「例会ギャラリー」国府田恵一氏著より。

佐藤松之進のこけし

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 『こけし手帖』平成21年5月号 580号。
 今回ご紹介するのは二本の佐藤松之進である。 
 右は尺、左は8寸5分である。やや縦長の大きめの頭に、中央がやや膨らんだ胴の堂々やる量感のあるフォルム。眉と目のアクセントが出た鋭い面描。力強いこけしと思う。4段の大振りの重ね菊の胴模様の上下を紫のロクロ線が締めている。下部のロクロ線は胴の最下端、畳み付きに接するようにひかれている。面取りは大きく、底はのこぎり挽きである。裏模様として、右では赤の、左では紫のアヤメが描かれている、
 また、右の胴底には小室の、左の胴底には佐藤松之助(松之進の戸籍名)の記入がある。右は正末昭初、左は大正期と思われるのだが、その時点での収集家の工人の名義に関する認識を表しているようで興味深い。以上。「例会ギャラリー」鈴木康郎氏著より。

戦後復興期のこけし

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 『こけし手帖』平成21年6月 581号「例会ギャラリー」より。 
 戦争が激しくなって萎んだこけしブームの立ち直りは、緩やかなものであった。戦前から収集家が、一部の工人に接触しはじめたことにより、以前から作っていたいわゆる伝統こけしの製作をぽつぽつ開始したのであった。
 食うや食わずの生活の中で最初に人々に受け入れられたのは、むしろ新型こけしのほうでなかっただろうか。工人の中には、当時、新型こけしの木地を挽いて生計を立てていた者も多かったのである。戦前からの収集家の啓蒙活動が浸透し、少しずつ伝統こけしが人々に受け入れられるようになり、こけしブームを予感するような時期が続いた。
 戦後復興期に先人の果たした役割は大きい。そういう方々の活動がなければ、こけしブームの再来は無かったかもしれない。
 私が収取開始以前のこけしを入手していつも思うのは、戦前のこけしに比べて、復興期のそれは写真での紹介が少ないことである。そうすると何が起こるのか。作った時期が分からず、面白味が深まらないのである。例として、写真のこけしを揚げる。伊藤松三郎のこけしである。この二本は、昭和25年頃から収取されたという人が所蔵されていたもの。
 さて、どちらが古いのかしら。まず形から、肩が高いので、2本とも20年代のもの。頭の形からは右が戦前に通じる雰囲気を持っており古そうである。表情も若々しい。いずれも20年代で、あまり作った時期は違わないと見受けられる。他の特徴としては胴の底には何も書いていない。左は丸く刳り抜きがあり、伊藤松三郎と自筆で書かれている。昭和20年代、30年代のこけしには、戦前に及ばないかもしれないが、今のこけしとは違う昭和の良き時代を感じさせるものがある。以上。こけし友の会・小川一雄氏著。

「佐藤今朝吉のこけし」

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 『こけし手帖』平成21年7月号 582号「例会ギャラリー」より。
 昭和5年3月1日、下駄職人惣太郎次男として生まれる。吉郎平系列松之進家である高橋広平につき昭和28年6月より木地修業を始める。こけしの方は、昭和35年3月より、佐藤富雄の手ほどきにより習ったためか、文助型に近く、胴模様は文助様式である。
 昭和48年ころより林平広平系統の模様になりそのまま定着する。
 平成10年9月13日に68才で死去。林平幸平型に一般型を加味した作風であるが、昭和40年前半までのものを紹介したい。
 右より㈠番目は、31才。昭和35年4月頃作で若手工人組合に入ったばかりの頃父親が工人でない為、伝統上問題があるとの理由で組合になかなか入れてもらえなかったようである。
 ㈡番目は、35才。昭和39年11月作、重ね菊がゆったりと描かれている。首と裾の轆轤が赤く太い2本線。
 ㈢番目は、製作時不明。㈡と様式は似ているも眼点は大きく、顔全体も幾分大きく描かれており、重ね菊の芯に丸味があり、首と裾の轆轤が3本で細い線を挟んでいる。
 ㈣番目は、38才。昭和42年4月作、文助の枝梅模様。木地は古い文助型の轆轤型。この枝梅は、いち(友治の妻、松之進の母の得意とする描き方)である。
 その後、猫鼻や、胴は梅くずし、または松之進のタ泙虜ずし、扇型重ね菊で、扇が巾広いもの、首の細い広平型など、目が右下がりになっていく。
 疑問点として、林平広平型と文助型の区別は、名前のサイン方法、今朝吉の「吉」の字が土(つち)か士(し)か?底の木取りで丸爪か切り取りか、頂天模様で手柄か旭日手柄か?解明してみたい。以上。
 こけし友の会 吉田博人氏著。
 

「小寸こけしの楽しみ」

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 『こけし手帖』平成21年8月号 583号「例会ギャラリー」より。
 小寸こけしの明確な寸法定義は無いと思われるが、立子(鳴子系)が3寸から3寸5分、こけず(遠刈田系)4寸、キナキナ(南部系)が3寸から3寸5分、友の会のおみやげこけしが3寸5分と4寸との慣例から4寸位以下のこけしを小寸と呼ぶことにします。小寸こけしの中でも袖珍こけし(1寸6分位)、豆こけし(2寸程以下)と呼ばれる事もあります。
 小寸こけしへ心惹かれる点はフォルムと描彩の素晴らしさと思います。各工人が全神経を集中させて一心に作り上げた結果を見る思いです。一言で言うなら【木の宝石】です。
 川連木地の卓越した技術で作られた重箱を使ってその中に井上ゆき子工人(写真 法∪篤1ζ癲∈監J櫃劼躪人、六郷仁美工人、瀬谷幸治工人(写真◆法国分佳子工人(◆法奥瀬陽子工人(2)、盛美津雄工人(◆法∧神の袖珍こけし77本があります。
 本の装丁技術を使って作った箱(写真)には佐久間芳雄工人、佐久間敏夫工人、稲毛豊工人の小寸こけしがあります。
 りんごの容器は阿保正文工人の作です。中に1寸から1寸5分のこけしが入っています。
 最小のこけしは佐藤良子工人の8分こけしです。
 以上。こけし友の会 田中厚司氏著より。  ※この写真では解りにくいですねぇー。

「加納伝三郎のこけし」

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 『こけし手帖』平成21年9月号 584号「例会ギャラリー」より。
 毎回の事ながらテーマの選定に迷う。今回は手持ちのこけしの中から今まで取り上げられることの少ない伝三郎の作品をテーマとした。同工人は明治31年士族・工業学校の技術教師の長男として生を受ける。28歳で結婚、仙台の佐藤賢治に就き木地修業を行う。師事の詳細は不明だが大正6年以前と思われる。
 木地挽きに携わった期間は長いものの、こけしの製作は昭和10年代のこけしブームに際し、勧められて製作したものと思われる。昭和15年5月脳卒中にて死去、享年43歳であった。
 家業は次男の栄次が44年から佐藤巳之助の勧めで継承している。筆者には所有の機会はなかったが父親の型を忠実に再現し、その異色さを伝えている。
 現存する作品は極めて少なく昭和14年櫻井玩具店から2回に分けて頒布された100本程度のこけしが残されているものと思われる。
 写真の右側は、伝三郎の昭和14年作8寸でこけし店の入札で入手、前述の桜井頒布のものと思われる。朴の木の素材は基より、足踏みロクロで挽かれた温もりが心地よい。
 胴には太筆で大ぶりの花が描かれ、見所でもある。前髪は横に広く両鬢は長く、その表情は素朴で可憐な少女を彷彿させる。頭部の描彩は賢治の伝承、胴模様は胞吉の影響があると云われている。
 真ん中は、最初に入手した6寸。
 左側は、師匠の賢治の15年作8寸である。参考に並べてみた。15年前の作には娘の相沢美代子が描彩した物があるとされており筆者の物かと思われる。以上。こけし友の会・平塚俊夫氏著より。

「新山吉紀・真由美・新山福太郎型こけし」

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 『こけし手帖』平成21年11月号 586号「例会ギャラリー」より。
 こけし手帖、平成13年9月号に新山福太郎と系列こけしを書いた。あれから8年、弥治郎系こけしの中心地で新山吉紀さん、真由美さんご夫妻は弥治郎こけしの研究に力を入れて活動している。私は真由美さんの平成12年頃から作り始めた福太郎型に興味を持っていた。
 今回第17回の美轆展で福太郎型1尺5寸を吉紀さん、真由美さんそれぞれが出品していた。ご両人に確認したところ福太郎型の復元作であることが分かり、早速それを買うことにした。後日2本のこけし(写真右と右中)が届いた。吉紀さんにお礼の電話をすると出品のではなく新たに作って頂いた事が分かった。
 写真左は新山福太郎1尺5寸昭和30年前後の作。復元に使用したのは同型の物。新山福太郎と言えば戦前作に見られるように目がパッチリしたものだが、戦後になり目が細く小さく画かれている。写真左中は小関幸雄作、平成6年1尺5寸。同型の復元作昭和53年頃から平成6年頃まで作った。晩年の作、長年にわたる福太郎復元の重みのある作品。写真右中は吉紀作、1尺5寸、その特徴をとらえた顔の表情である。
 右は真由美作、1尺5寸、女性工人特有の可愛い表情が表現されている。真由美さんが1尺5寸の大物の木地を挽きこなす技量はさすがである。 
 ギャラリーの中でこのこけしに付いて色々と話しの輪が広がり、弥治郎系の特徴の襟首の輪のあることが必要ではないか、肩から胸の膨らみがあったほうが良いのではとのご意見を頂いた。
 この事も含め、更なる福太郎型こけしの探求をお二人にお願い出来ればと思う。以上。
 東京こけし友の会・橋本永興氏著より。

「津軽の古型 ロクロ模様」

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 『こけし手帖』平成21年12月号「例会ギャラリー」より。 
 こけし蒐集の楽しみ方の一つとして、何人かの工人の同一の型のこけしを集めるという方法がある。
 今回は津軽系の盛秀型古型ロクロ模様のこけしについて4人の工人のこけしを見てみたい。この古型ロクロは盛秀太郎の戦後のこけしが「原」になっていると思う。胴は中程に段があって段下部は細くなっておりマントを着ているようにもみえる。胴模様は赤、黄、緑、紫のロクロ線のみ。アイヌ模様に達磨や牡丹を描く他の盛秀型に比べてシンプルである。
 この古型ロクロは、奥瀬鉄則、陽子、恵介さんと盛美津雄さんが作っている。最初に入手したのは鉄則さんのこけし。その後、美津雄、陽子、恵介さんの順に集めてきた。集めている過程で、この盛秀の古型
ロクロには描彩の異なる2種類があることが分かった。一般的には目は二重で、長い上瞼、短い下瞼とも上に凸(仮にA型とする)であるが、下瞼も長く水平か下に凸(仮にB型とする)のものである。
 写真は左から鉄則、陽子(2本)、恵介(2本)、美津雄(2本)であり、鉄則さん以外は左がA型、右がB型である。鉄則さんのB型は見たことがない。陽子さんはかなり初期からA、B両型を作っているが、両者の違いは目の描彩である。写真左から3本目に見られるように、陽子さん初期のB型は眼点が中央に寄った三白眼で集中度の強い素晴らしい表情をしている。右から3番目の恵介さんのB型は奥瀬家にある盛秀こけしを見て初めて作ったもので、胴底に「初」と記入してある。
 右端美津雄さんのB型は最近の作。この恵介、美津雄両人のB型は他の古型ロクロとロクロ線の敗色が異なることに注意されたい。以上。こけし友の会・国府田恵一氏著より。

「小椋泰一郎のこけし」

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 『こけし手帖』平成22年1月号「例会ギャラリー」より。
 今回は木地山系の小椋泰一郎のこけしを紹介したい。「こけしのふるさと」に郷土史家の伊藤雅義氏が発表しておられるところによれば泰一郎は米吉と並んで木地山系こけしの祖、明治35年頃のことらしい。
 残念ながら創成期の泰一郎のこけしは残っておらず、知られている最も古い泰一郎のこけしは「図鑑『こけし這子』の世界」に掲載の大正後期の作である。このこけしは全体に力強く素朴な印象を受ける。
 写真(右・9寸3分)のこけしはこれに次ぐ時期のもので昭和4年頃と思われる。ほぼ水平に描かれた目は小さいが写真(左・5寸)ほど繊細ではない。らっきょう形の頭、微妙な厚みの肩の段、やや下すぼまりの胴の形態等がこの時期の特徴のようである。
 武井武雄氏と同時期に活動した収集家の旧蔵品である。写真(左)は米浪庄弌氏旧蔵、写真(右)と似るが描彩、形態ともやや洗練されていて、1、2年後の作と思っている。西田記念館や植木昭夫氏の所蔵品などがこの時期の作と考えられる。形態はやや直線的になり下すぼまりはそれ程明確でなくなる。
 また、表情も洗練されてすっきりとした印象になり、いわゆるピーク期の特徴を備えるようになる。
 このピーク期を挟んで、初期のこけしと似た、表情に力のある素朴な感覚のこけしが出現するが初期のこけしとは微妙に差があるように感じている。
 後年泰一郎は目は大きく、締りのない形のこけしを世に出したので評価も下がってしまったが初期の泰一郎こけしは別次元であろう。以上。こけし友の会・鈴木康郎氏著より。

「手許で楽しむこけし達」

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 『こけし手帖』平成22年2月「例会ギャラリー」より。
 何故ギャラリーに墨こけしを取り上げることになったか、話してみたいと思う。 
 私はこけしを集めだした頃(土産からスタートしている)手許において対話の話し相手として見ており今も同じである。最近は家庭平和の為と出しておくと退色の問題にさらされる故、箱にしまうようにしているが、対話の回数が減りさびしい限りです。
 しかし気に入ったこけしは、部屋の片隅や、棚、階段、窓辺に置き、それを楽しみにしている。外に出し飾ってあるため、欲しがる方にあげてしまうこともたびたびですが、墨こけしはそれを免れられたため
永く飾られることになり、私の目的に合致し、「話し相手」となっている。
 人生の相談ごとの聞き役の3本とプラス1本を紹介する。
  ヽ鎚源圈73才昭和48年作。弥治郎系であるが遠刈田の作田栄利に描彩を習い、表情は好きで今も飾っている。悩み相談こけしである。
 ◆〆監J現55才昭和30年作。大小数多く作っており、すぐ売れるほどの人気の頃。何度か欲しがられたが手放さなかった。墨こけしを意識した切っ掛けのこけし。
  山尾武治・昭和48年入手。山尾は昭和46年6月死去。戦後は娘、富沢昭子の描彩、やさしい表情なので、癒され心和む作品。結婚に賛成してくれた?こけし。
 ぁ ̄慨鄲綣・昭和42年入手。飲食店に飾れており、20日以上通い譲り受けたこけしで墨こけしの為に栄えるこけしで元気を与えてくれる。
 時が経つと墨こけしも退色するが、木地自体の主張が出てきて、濃淡がはっきりし別の美しさを見せてくれる。墨こけしの美しさを認識してください。写真でカラーも良いけれど、白黒での色の美しさは、別段ではないだろうか? 釣りでいえば「鮒で終わる」がごとく、墨こけしを楽しむのも一つの集め方であると思います。以上。 こけし友の会・吉田博人氏著より。

「伝統的工芸品展 2010」

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 平成22年1月27日(水)~2月1日(月)日本橋高島屋8階催し会場で行われた。会場は経済産業大臣の指定を受けた全国から170余りの伝統工芸品が一堂に会し、伝統の技を披露していた。
 宮城県からこけしで出品の遠刈田系工人佐藤一夫さんと同時開催のふるさと工芸品展に出品の秋田県の木地山系工人三春文雄さんのご両人から案内葉書をいただき、1月31日会場にお伺いした。
 佐藤一夫さんの大尺ものから小寸まで、優しく微笑む幼女の顔に、遠刈田こけしの特徴の木目、枝梅など赤色を基調とした色彩豊かな胴模様の、素晴らしいこけしが並び一際人目を引いていた。元来展示の場合は描彩など座って作業をしながらの接客だが、今回は展示販売のみで、すでに5日間立ち尽くしでお疲れとの事。当日奥様の良子さんが応援に駆けつけたところを、お会いする事が出来た。良子さんはお雛様を作るのが楽しそうで作品も一緒に展示販売していた。今回佐藤一夫さん、良子さんとお話出来、またお二人の各種の作品を見る事ができ勉強になった。
 三春文雄さんは1月30日(土)31日(日)の二日間会場に駆けつけ接客された。三春さんとは昨年秋に樋渡治一のこけし全種作っていただいたお礼と治一型復元に付いてお話した。
 私は小椋石蔵のこけしが好きで各工人さんの石蔵型を集めているが、三春さんに石蔵こけしに付いてのお話を聞き、改めて石蔵こけしの魅力が深まった。私が昔、デパートの展示で小椋正吾さんの石蔵型こけしを買った時からの話に始まり、石蔵が一本一本が異なり、胴模様は隙間なく模様を描く性格で、晩年は左手だけで描彩をしていたなど興味深いお話を聞かせていただいた。
 小椋泰一郎の復元も昨年から始められ、今後の楽しみが増えた。
 三春さんの復元の考え方は元の寸法描彩に正確に作る事で、今後ますます優れた復元こけしが出来ることを楽しみにお別れした。以上。「写真は佐藤一夫・良子ご夫妻です」
 『こけし手帖』平成22年4月号 591号 「和NEXT」。こけし友の会・橋本永興氏より。

「渡辺求工人こけし」

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 「凡作程度と評された渡辺求のこけし」田中厚司氏著より。
 10年程前にふらりと寄った古道具屋で目にした時は暫く見続けていて手に取ることが出来なかった記憶があります。そのこけしが写真右(1尺7分)です。写真左(1尺5分)は昨年の友の会例会の中古こけし販売で最後まで売れずに残ったこけしです。なんで人気がないのか不思議です。
 求工人は、弥治郎の佐藤伝内に弟子入りし、栄治(伝内の父)・伝内について10年近く木地修業。その後、木工場を転々として昭和4年に岩代、熱海(磐梯熱海)に落ち着き、独立して木地屋を開業するが、木地製品の販売が振るわず地元の郵便局に配達夫として勤務しその傍ら余暇にこけしを製作、昭和36年頃に郵便局を退職後、本格的にこけしを作る。 
 こけしは佐藤(白川)久蔵に強く影響を受けていたと言われるが、久蔵工人は殆どこけしを作らなかったと言われ、現存するこけしも無いので比較できない。
 写真右のこけしは、黒頭(頭上の塗りつぶしは無い)、ベレー周縁の蒲鉾状飾りが有ったと思われる、二重瞼、猫鼻、口には2本の墨が入り大変張りのある表情をしている。首は回り、襟巻状の受け皿、胴には左の様な重菊が入っていたと思われ、中間と底部分に墨の3本のロクロ線が入りその中に牡丹が描彩され、裾が少し広がった直胴で美しいフォルムです。製作年は、顔の描彩から推定して牡丹を描彩しだした頃の昭和15年~18年頃ではないでしょうか。
 写真左は、各種の図録を見ても同種のこけしが多く掲載されていますので、求工人の代表的なこけしではないでしょうか。頭・胴共に太く、黒頭、ベレー状飾り、二重瞼、猫鼻、口には1本の墨と赤が入っています。首は回り、襟巻状の受け皿、胴には首と中間のロクロ線の間に重菊、中間と底部分の3本のロクロ線が入りその中に牡丹が描彩され、直動です。
 製作年は昭和40年と購入者によって底に記入が見られます。こけし辞典によりますと「戦後作品では40、41年頃がピークで佳作が多い」とありますが、いかがでしょうか。以上。
 『こけし手帖』平成22年4月号 591号「例会ギャラリー」より。

「斎藤松治のこけし」

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 『こけし手帖』平成22年5月号 592号「例会ギャラリー」より。 
 何時もながらテーマ選択に迷う。思案の末、松治をテーマとした。
 「美と系譜」グラビア掲載の秀島孜氏旧蔵の名物に圧倒され昔から松治に惹かれていた。漸くチャンスに恵まれ憧れの松治を手にする事が出来た。同工人は明治10年に生まれ12歳から木地業に就くものの昭和14年から23年72歳で没する間の8年弱(4年説もある)のものしか現存しない。
 松治は栄次郎と共に蔵王高湯系の祖とも云うべき工人である。新地でのこけしの隆盛を聞き、万屋斎藤藤右衛門が土湯出身の当時20歳の阿部常松を招聘し、栄次郎と松治に修行させた経緯、温海に渡った常松を両名が追い師事した話等面白い。藤右衛門が生み両工人が祖となり、その後の能登屋栄作や緑屋源吉達の活躍で蔵王高湯系伝統が出来上がる様子等興味が尽きない。松治のこけしには新たな伝統が生まれて行く過程が凝縮されているようだ。
 写真右は昭和14年作と思われる8寸。森田丈三氏の著書にある14年に仙台の櫻井玩具店で最初に買求めたものと同手と推定した。木地はイタヤ、胴太く量感がある。肩の膨らみと括れた胴に紫の帯を赤のロクロ線で引き締めている。胴模様は通称ねじ菊と呼ばれる菊花の下半分が赤と紫で描かれている。艶やかさを増している様だ。松治作では頭が目立つが手持ちは手絡、常松の影響が青く小さな皿が描かれている。面描は土湯を彷彿させるたれ鼻と三日月目。右の眉と目が釣上り、引き締まった口元と相俟って穏やかな中にも芯の強さを感じさせる。底は著名代わりの青のゴム印らしき跡が残っている。
 写真左は17年頃かと思われる保存の良い6寸、ねじ菊は紫から緑となっている。底には蔵王高湯のゴム印と著名がある。眉太く、その表情は厳しいが上唇が厚く、僅かに微笑みを感じさせる作品である。
以上。こけし友の会・平塚俊夫し著。

「遠刈田の梅こけし」

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 『こけし手帖』平成22年6月号 593号「例会ギャラリー」より。
 私がこけしの蒐集を始めた頃に入手した中に大沼昇治の梅こけしがあった。以来、この梅こけしの蒐集にも力を入れてきたが、その誕生の由来を知ったのは最近である。手帖54号の米浪庄弌氏の「円吉梅こけし」の中に記載されていた。それによると、米浪氏は産地訪問の旅をする際にこけし絵を描いた名刺を持参し、それを訊ねた工人に渡すのが常であったことのこと。そして昭和14年5月の旅では大野栄治の梅こけしを描いて、それを遠刈田の佐藤円吉にも渡したのであった。後日、円吉から送られてきたこけしに
米浪氏は驚くことになる。何と円吉のこけしは大野栄治のこけしをそっくり真似たものであったからである。米浪氏は直ぐに円吉に手紙を出し、このようなこけしを作らないように説得したが、時既に遅く、円吉は他の愛好家にも送っており、以来円吉の梅こけしとして定着してしまうのである。
 円吉の梅こけしは当初はこけし絵を真似たもので、胴の梅は胴下部に2輪、胴上部の胸に1輪の簡素なものであったが、やがて花数が増えて華やかなものとなる。円吉の息子・治郎もこの梅こけしを継承したが、次第に治郎自身の特徴が現れて、治郎型梅こけしへと変わっていった。治郎の弟子である大沼昇治の梅こけしは、当初、この治郎型梅こけしをそのまま真似たものであった。
 その後、昇治は円吉の梅こけしを目指すようになる。
 先ず作ったのは、初期の円吉型梅こけしで、切れ長の目と簡素な梅模様のこけしであった。この型は昭和40年代末には完成の域に達する。やがて昇治の目標は後期の円吉型梅こけしとなる。湾曲の大きな目で花数の多い華麗な胴模様のこけしである。
 遠刈田の異色の梅こけしも昇治亡き後は後継者が現れない。寂しい限りである。
 写真は右から大野栄治、円吉、治郎、昇治2本のうめこけしです。
 以上。こけし友の会・国府田恵一氏著より。

「岩本芳蔵の本人型」

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 『こけし手帖』平成22年7月号 594号「例会ギャラリー」より。
 岩本芳蔵は昭和31年友の会の小野洸氏の計らいで父親岩本善吉のこけしを作るようになる。こけしブームに乗り、こけし蒐集家の間で芳蔵の善吉型が高い評価を得て各種の型を残した。お弟子さんもたくさん育て中ノ沢温泉の「たこ坊主」こけしとして定着し、今日多くのお弟子さんにより作られている。
 芳蔵は、24歳(昭和10年)から中ノ沢でこけしを作り始めるが、父善吉から同じこけしを作る事は許されていなかったようで、自分なりに工夫したこけし(本人型)を昭和31年小野洸氏と接するまでに作っていた。
 写真中央は8寸、芳蔵作本人型・昭和14年から17年頃の作。ある入札会に参加した時、顔の表情・胴の牡丹の力強い描彩、全体に黒ずんでいるが何より色が飛んでなく、緑色が鮮やかに残っていて、これは素晴らしいと一目ぼれし何とか入札した。あとでわかったことであるが、戦前の有名な蒐集家の旧蔵品とわかり慶びも倍増した。各文献にある写真のなかの芳蔵型と比べても、見劣りしない芳蔵本人型の名品である。
 左から2番目は6寸・芳蔵本人型・昭和30年作。顔が横に張った楕円型は戦後作によく見られる作である。
 左端は5寸・芳蔵本人型・戦後作。真ん中と比べると左2本は筆圧が弱く力強さが失せてきている。
 右から2本目は4寸・芳蔵本人型。磯谷茂名義。顔の表情から芳蔵初めの頃(昭和13年頃)の作と思われるが胴の牡丹、幹の描き方が文献では見かけないところに不明な点が残る。
 右端は5寸・氏家亥一名義。芳蔵亥一名義。芳蔵木地、本多信夫描彩が考えられるが、隣のこけし同様不明な点がある。
 岩本芳蔵は父善吉の伝統の幅の中、芳蔵独自の世界で父親に匹敵する素晴らしいこけしを芳蔵本人として作品を残した。
 工人の一生の作品の中から、最高の作品を残した時期とこけしを探す事も蒐集の一つの楽しみである。
 以上。こけし友の会・橋本永興氏著より。

「小林清次郎のこけし」

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 『こけし手帖』平成22年9月号「例会ギャラリー」より。
 小林清次郎は山形作並系こけしの名門一家の出身で戦後こけし界の巨星といえる存在です。
 昭和39年に伯父の吉太郎型の復原により注目を浴び人気工人となりました。その後は各種の吉太郎型や吉兵衛型さらには倉吉型、吉三郎型、清蔵型、栄蔵型といった小林一家のほかに堀実、鈴木米太郎、笹野不明、作並不明等の復原など多種を作りいずれも良い作品に仕上がっています。
 また親分肌の性格で長年にわたり山形県こけし会の会長として県内の工人を纏めあげたほか、実演などにも積極的に参加し、多くのこけしファンを持ち、こけし界発展に大きな力を発揮してきました。
 清次郎は長時間にわたり安定した良い作品を残していますが多作のため中古市場では一部の時期のものを除き比較的安価で売られています。この点では菅原庄七の状況と良く似ているといえましょう。
 今回は昭和40年前後の吉太郎型と吉兵衛型、「愛こけし」の吉太郎や旧溝口コレクションの小林一家、笹野不明、作並不明のそれぞれの写し、原である「愛こけし」「溝口コレクション」のアルバム、「愛玩鼓楽」「高橋胞吉-人こけし」の写真とあわせて見ていただくことにしました。
 写真,蓮吉太郎型以外。
 写真△蓮吉太郎型(昭和40年前後)。
 「例会ギャラリー」こけし友の会・河野武寛氏著より。

「大沼力の一般型と誓型」

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 『こけし手帖』22年9月号 596号「例会ギャラリー」より。
 私がこけしに興味を抱いた理由の一つに愛らしさと対話して気持ちを癒される自分を見つけたことによる。それはストレスと向き合う生活(団塊の世代の為か学校、塾での進学にかなりのストレスを抱えていたからだと思える)に疲れを感じた時に、こけしとの出会いであり、入会して更にこけしとの対話を求めたからだった。
 入会してほどなく手に入れたこけしが今回の力さんのこけしである()。故西田元会長の所有大沼誓8寸(現在西田記念館所有)、昭和41年1月に復元され、注目を浴びる。翌月、会での頒布された内の1本で、黄胴に眉の太い赤色のロクロ線はなかなかのもの。その後、数々の復元作が世に出ることになる。
 大沼力さんは、昭和2年に生まれ16年卒業後印刷局や鉄道に勤め、終戦と同時に父、誓につき同時にこけしも作る。戦後は、鳴子一般型を、温泉土産こけし△箸靴董∈遒襪海箸多かったが、フォルムは、父からの利右衛門系の独特な勘治型の作風だが、胴模様は、誓が岡崎斉の胴模様の影響を受けたと言っていたことを、証明している。( ↓◆貌辰豊,陵佑瞥佞忙藩僂靴仁个離櫂好拭璽ラーは、この時代(23年~28年頃まで)の特色。菱菊の花弁は細く下に伸びている。
 復元以降、本人型の表情も、あどけなさから全体が引き締まった顔に変化していき、豊かさを持つ、これは復元したことにより誓型も本人型も筆使いが良くなったと感じる(ぁ法
 昭和50年代の注文で、えじこは厚みがないのならば、即作れると木地挽きに自信を持たれた発言も有り、バランスの良い力作が、頒布や店先に並んでいた。
 一般共通型土産温泉こけしの中にも、面白いこけしがあり、工人たちの作風が変わる前後のこけしを見つけるのも、集める楽しさを駆り立て、対話で癒される。(写真右より ↓◆き、ぁ飽幣紂
 「例会ギャラリー」こけし友の会・吉田博人氏著より。

「太田孝淳さんのこけし」

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 『こけし手帖』平成22年11月号 598号「例会ギャラリー」より。
 太田孝淳さんは昭和14年の生まれですので、今年で71歳になります。私が初めて太田さんのことを知ったのは平成15年11月に仙台のカメイ記念館で発行された伝統こけし工人録を見てからです。その時の印象は今度新しい工人さんが出たのかな位のものでしたが、翌年の平成16年初めにこけしの現物を見た時は土湯系の割合良い出来のものであったので欲しくなり早速注文したところ、4月に入ってすぐ送ってくれました。
 写真,里發里その一部です。みなとや系の雰囲気のあるもので黒と赤の返しロクロが印象的なこけしでした。
 次に頼もうと思っていたところ一金会の仲間のK氏が、おもちゃっぽいもので木地はなるべく磨かず、ざらざらしたものを作って貰おうと思っていると言っていたので、私もそれは面白いと同じ様に注文したところ5月に入って送ってくれました。
 あまりにもおもしろく楽しめるこけしだったので、毎月のように注文しました。
 写真◆幣綢Α法↓◆焚実Α砲里發里5月から翌年の17年3月までに送って貰ったものの一部です。
 これらのものは太い筆致で表情もきつく特に傘こけしなどは特別に良い表情をしています。
 今回は平成17年3月までのものを紹介しました。以上。
 「例会ギャラリー」こけし友の会・田村弘一氏著より。

「技への挑戦」佐久間芳雄の入れ子傘こけし

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 『こけし手帖』平成22年12月号・599号「例会ギャラリー」より。
 当会会員の軸原ヨウスケ氏企画による「kokesi book」の発刊来、オールドファンから若者へ間口が広がり、鳴子やこけしを扱う店そして当例会にも若い方が多く集うようになった。又、若手工人の活躍が目立ち、本当にうれしい限りであります。
 今月のギャラリーは、表題の芳雄工人の入れ子こけしを取り上げた。芳雄は昭和10年1月15日福島に生を受け、土湯系の名門湊屋の跡取りとして祖父由吉、父芳衛につき木地を習う。但し、こけしは作らず、木工施盤を用い木型や造船材を挽いた。昭和32年5月父の死後、祖父由吉の木地を挽く。若干のこけしを制作するに留まり、48年頃から製作を再開し、平成8年5月死去する迄製作を続ける。祖父と同様に坊主・髯・傘やガラ入り・孫持ちと細工物を好み、作柄は父芳衛に似ている。
 本日持参の物は、平成18年当会による芳衛工人の弟・秀夫氏の所蔵品の入札時に入手したもので、傘こけしの入れ子と云う技へのこだわりに惹かれたものである。
 写真は由吉型の傘地蔵、曾孫持ちである。右から親尺1寸、胴径3.6寸、傘径4.3寸。子7.5寸。孫4寸。
曾孫2.2寸。傘にはロクロ模様と外側は、たっぷりと付けられた染料をロクロの遠心力で飛ばした祖父譲りの技法が凝らされている。
 画描も尾鰭の様な前髪、カセはマテで精緻を極め、眉目は細く軽く描かれ、鼻は幅広の垂れ鼻、紅の引かれた口許と相俟って微かに微笑んでいる。胴模様は赤、黄、緑、黒のロクロ模様と電光、波線、半渦巻きと美麗な衣裳を纏っている。
 最近、当例会でも芳雄作を見掛ける様になった。湊屋直系の木地、こけしへの拘りを楽しんで戴ければと思う。以上。「例会ギャラリー」こけし友の会・平塚俊夫氏著。
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