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Channel: こけしおばちゃん
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「國分榮一の勘内型」

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 『こけし手帖』平成23年1月号 600号「例会ギャラリー」より。
 國分(こくぶん)榮一さんは昭和7年生まれの現在78歳、電話での話しもお元気な声でした。
 榮一さんは昭和53年にコンクールで大賞をとられ、平成7年まで活躍されたがその後こけし製作から遠ざかった。一時、目を悪くし、現在は回復したがこけしは作らず色紙程度を書いている。
 國分榮一さんは昭和24年鎌田文市さんに師事、昭和47年本格的にこけしを造る。当初は文市さんの師匠である佐藤勘内型を知り合いの協力で多数復元した。佐藤勘内は明治16年生まれ昭和14年没57歳。栄治の次男で。長男は伝内。父につき木地を修行、主に鎌先でこけしを造る、大正14年頃からのこけしが残っている。
 写真右から,牢内11年頃の作。頭は横に広く、表情はおおらかで明るい。頭頂部ベレーのロクロ線は太細あわせて14本あり繊細な一面を表している。胴はやや細く裾がわずかに広がり、菊の赤と青に三ヵ所のロクロ線がしめている。昭和6年以前には紫の襟巻きを巻いて、黄色胴に塗りつぶしたものが多く見られる。素朴ななかに何処か芯の入った古きよき時代を代表する弥治郎こけしである。
 写真△蓮∠動貍赦54年作。7寸黄色胴、紫の襟巻きと裾がわずかに広がり紫に塗られている。久松コレクションに類似、原は昭和6~7年頃の作。
 写真は、榮一昭和54年作。6寸7分黄色胴、直胴裾わずかに広がり、胸の襟が特徴、西田コレクション。
 写真い蓮∠動貍赦54年作。7寸5分、直胴裾がわずかに広がり、鈴木鼓童コレクションに類似、原は昭和6~11年作。
 写真イ蓮∠動貍赦54年作。6寸造りつけぺッケ、首に鉋溝有り、黄色胴。
 写真Δ蓮∠動貍赦60年作。6寸4分黄色胴、ぺッケ、首に紫の襟巻き。愛玩鼓楽発刊記念こけし。
 昭和50・60年代に足跡を残された國分榮一さんにこれからも末永くご健勝であることを願いたい。
 以上。「例会ギャラリー」こけし友の会・橋本永興氏著より。
 ※ 國分榮一工人は、平成26年7月26日亡くなられました。享年82歳。

「井上ゆき子さんのこと」

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 佐藤春二こけしの継承者としては、第一に井上ゆき子・はるみ親子のことがあげられる。白布の新山慶美、弥治郎の佐藤辰雄など、春二の教えをうけたことのある工人達が、春二の没後春二型のこけしを作ったりしているが、いずれも自家の本来の型が主であり、春二型を主として作っているのは会津の井上ゆき子達には及ばないであろう。
 井上ゆき子はもともと、民芸品や新型こけしの制作者井上義治の長女で、はじめ父に教わって新型こけしなどを作っていた。小林四郎を婿養子として四郎の木地に描彩をしていたが、四郎が春二の弟子であった関係で、春二に習って良いこけしを多く作った。爾来、春二型を主として作り、やがて自身も木地も作るようになり、女流工人としての評判が高くなったのであった。それと共に夫君四郎も描彩も行う様になり、これもこけし工人としての地位を確立したのであった。
 はじめ両人は喜多方市に住んでいたが、近くの塩川に居を移して、おおくの伝統こけしを世にだしたが、四郎は昭和56年1月に51歳で亡くなり、塩川の井上家には、娘のはるみとゆき子が残った。この頃のはるみはまだ子供で、母ゆき子について廻っていた。やがて師匠の春二も昭和57年に他界し、いよいよゆき子は一人立ちの春二型工人としてこけし製作を続けたのである。
 『こけし手帖』平成23年2月号 601号 こけし友の会・柴田長吉郎著。
 ※(井上ゆき子工人は、平成22年11月1日永眠。享年77歳。)
 つい昨日の事の如く、思い出されるが、もうあの美しい姿に接する事は出来ない。ただ幸いにも、娘のはるみさんが美しく育ち、母ゆずりの良いこけしを作り続けているので、私は彼女に期待をつなぎたいと思っている。(慣例のより工人名は敬称を省略 平成22年記)合掌。

「佐藤一家ゆかりの工人のこけし」

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 『こけし手帖』平成23年3月号 602号「例会ギャラリー」より。
 今年の新年例会の招待工人は佐藤英之・裕介の両工人。それにちなんで今回のギャラリーでは佐藤一家にゆかりの工人の古品を取り上げた、
 先ず、佐藤誠。久松保夫氏の旧蔵で「こけしの世界」では大正後期弥治郎時代の作としている。大きな頭に華麗なロクロ線が見所。両工人の祖父の古作である。
 次に小倉嘉三郎。右は丹羽義一氏旧蔵、鼓童コレクションの昭和4年作と特徴が似ている。左は米浪庄弌氏の旧蔵。右より古いように思う。二本とも面描は慎重、色調はやや淡く、ごく初期の嘉三郎の特徴を持っている。嘉三郎は誠の師匠である。
 続いて高橋精助、これも米浪氏の旧蔵で、ガラ入りである。復活期の昭和14年作と思われる。伸びやかな面描の線が好ましい。精助は嘉三郎の弟で高橋家に婿養子に入った。
 最後は大野栄治、7寸。友の会入札に出たものである。優しい表情で素朴な感じである。弥治郎時代、栄治としては最も古い作の一本ではないだろうか。栄治は誠の弟弟子で嘉三郎の娘と結婚している。 
 佐藤一家が写しを作る四人の工人の古作を紹介した。慣例により文中工人の敬称は略した。
 写真の右より 佐藤誠(尺1寸6分)
        小倉嘉三郎 2本(尺。8寸3分)
        高橋精助(尺3寸)
        大野栄治(7寸)
 以上。「例会ギャラリー」こけし友の会・鈴木康郎氏著より。

「特注こけしの楽しみ方」

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 『こけし手帖』平成23年4月 603号「例会ギャラリー」より。
 こけし蒐集の楽しみは人それぞれであるが、中でも究極の楽しみ方は、自分だけの特注こけしを作って貰うために幾つかの関門がある。
 一つは工人さんと懇意になること、一つは作って貰うこけしに関する知識があること、またそれなりの費用がかかることも覚悟しなければならない。だから、こけし蒐集を始めて直ぐに出来るものではないと言うことなのである。
 数年前に、私は「正吾のこけし」という自家製の小冊子をまとめ上げた折に、その記念となるこけしを作って貰おうと考えた。作って貰う工人は当然、高橋正吾さん。で、問題はどんなこけしを作って貰うかである。細工物の上手な正吾さんのこと、その技術を活かしたものにしたいと思った。また正吾さんは「高亀」の古いこけしを各種復元しており、そのことも頭にあった。最初に考えたのは入れ子のこけし。正吾さんは既に入れ子のこけしを数種作っていたが、普通の入れ子では面白くない。その時、私には正吾さんに作って貰いたいたちこがあった。大きさ2寸6分、橘旧蔵の下見で愛らしいものである。
 原は楓模様であるが、模様違いのものを出来るだけ沢山入れてくれるように頼んだ。
 また、親のこけしには天江コレクションのバッチリ目の武蔵を原寸で作ってくれるようにお願いした。
 そうして出来て来たのが写真のこけしである。胴を3分割りして、5本のたちこを2段に収納できるようになっている。親こけしは胴がやや太いが原こけしと全く同じ。たちこも原を見事に再現した愛らしいもの。
 満足度120%の出来映えで、面倒なお願いを引き受けてくださった正吾さんに、ただただ感謝である。 以上。こけし友の会・国府田恵一氏著より。

〔古作こけし名品展〕

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 『こけし手帖』平成23年5月号「例会ギャラリー」より。 
 カメイ記念展示館では2011年4月12日(火)~6月26日(日)まで「古作こけし名品展」を開催いたします。カメイ記念展示館の創設者の一人である亀井昭伍氏のコレクションを核とした選りすぐりの「古作こけし」を展示します。
 この「古作伝統こけし」は、(カメイ記念展示館は創立以来15年になりますが)開館当時から、おおよそ毎年一回のペースで公開されてきており、カメイ記念展示館の基軸となる展覧会です。
 2006年には「佐久間浅之助のこけし」、2009年には「小原直治」、2010年には「奥山運七」が加わり、回を重ねるごとにカメイコレクッションは、少しずつ充実度を増してきました。
 古作こけしは何度見ても見あきない深い味わいがあり、同時に新たな発見があるようで、常にみずみずしいのはなぜでしょう。
 閉塞感漂うささくれ立った現代の日本社会にあって、また仙台という100万都市の中心部において、このような古作こけし達に出会えることの出来る場の存在は、一服の清涼剤以上のものがあると恐縮ながら自負するものであります。
 今後も郷土が生んだかけがえのない日本の文化遺産として、こけしの収集、保存、公開、普及に努めてまいりたいと考えています。
 どうぞみなさま仙台方面にお越しの際は、ぜひ足をお運びくださいますようお願いいたします。写真は奧山運七の古作こけし(大正末昭和初期)です。以上。カメイ記念展示館学芸員・青野由美子氏より。
 ※ 私は、こけしまつりに参加した時は、いつも仙台のカメイ美術館を訊ねます。青野由美子さんは、いつも、美術館にいらっしゃいますが、鳴子こけしまつりなども、現地に行かれてお世話をしたり、会場でのこけし談議や、こけしの説明など、中心的に活躍されています。若くて美しい方です。

「元気を与えてくれるこけし」

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 『こけし手帖』平成23年6月号 605号「例会ギャラリー」より。
 今回は、日本全体元気がないので、眺めることで元気が出て、思わず微笑みが出て癒されて、時期的に桜見物をしてもらおうと取り上げました。
 右のこけしは、肘折の奥山喜代治と思われる。山形の愛好家の旧蔵品で戦後すぐ、この状態で肘折の川沿いの家で譲ってもらったとのこと。
 その後私が譲り受けたが、昭和16~18年頃蒐集家の要望に喜代治が、鈴木幸之助木地で作ったものと思われる。ユーモラスでグロテスク。独特の情味があり、前髪、目、口元、鬢の描き方に特徴があり描彩が、総体的に太く、眺めていると、素朴で微笑みかけてくれて思わず口元がゆるみ、体の中で何かがはじける気がするこけしである。特に石竹(撫子)の模様は,古い物でも数が少ない。
 左のこけしは、鳴子の大沼健伍です。これから桜の季節であり、珍しい桜模様のこけしです。昭和54年鳴子を訪れ、細胴の作り付けこけしと、この非売の胴模様「重ね桜」を無理に譲ってもらいました。
 満開の桜が、少しでも、気分を和らげてもらえれば、と思い選びだしました。今回の災害でも、被災地で海水に浸り折れても花をつけて、元気に咲いています。入手時「俺のこけしは表情が今一つ、せめて胴模様には賑やかさを…と思って、この模様は、昭和40年代に10本位作ったかなぁ」と言っておられました。
 確かに、その後この模様は見ていませんでしたが、3年ほど前に例会中古頒布で7寸が、出ましたのでどなたかがお持ちだと思います。これらのこけしを見て、元気になってもらえればと思います。以上。
 こけし友の会・吉田博人氏著より。

「こけしの蝶模様」

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 『こけし手帖』平成23年7月号 606号「例会ギャラリー」より。 
 こけしの胴模様には花やロクロ線が多いが中には蝶やトンボ等の模様が追加される事があります。良く知られた蝶模様は鳴子系の大沼岩蔵・弥治郎系の佐藤春二・木地山系の小椋米吉工人とそれを継承するこけしに見られます。岩蔵工人はこけし製作を復活した昭和13年頃より菊と蝶を胴模様に描彩しています。
 写真,留Δ蓮⊂赦14年頃中山平の岩蔵工人8.2寸です。保存が悪く蝶が描彩されていたか判明出来ませんが、古鳴子を思わせる大きなかぶら頭・肩が低く・一筆目に眼点・鼻は二筆で素朴なこけしです。
 右二番目は桜井昭二工人・三番目は昭寛工人の岩蔵型です。昭二工人の弟子で五十嵐勇・吉田勝範工人の岩蔵型にも蝶が描彩されます。
 佐藤春二工人も熱塩でこけしを製作していた戦前より胴に蝶を描彩しています。春二工人に指導を受けた工人やその型を継承する工人のこけしに蝶の描彩を見る事が出来ます。
 小椋米吉工人が戦前の旭川での約6年間に蝶模様を描彩したこけしが、西田記念館の西田コレクションに見る事が出来ます。
 阿部平四郎工人が米吉型を復元する時に元会長の西田峯吉氏が米吉こけしを貸し与えたと聞いていますので其のこけしと思われます。その後、全日本こけしコンクール第39回で内閣総理大臣賞を受賞したこけしにも蝶が見られるので原に蝶が描彩されていたものと思われます。
 写真△賄敕魴呂療亙嫦虱差人のこけしです。右(5.3寸)は頭頂に二匹の蝶が描彩されたこけしです。他のこけしはトンボと蝶が胴模様として描彩されたこけしです。土湯系の他のこけしに蝶の模様を見る事は無いので忠雄工人の創作ではないでしょうか。どれも見て楽しいこけしで忠雄工人の遊び心が感じられます。以上。こけし友の会・田中厚志氏著より。

「石蔵こけしの隠された秘密」

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 『こけし手帖』平成23年11月 610号「例会ギャラリー」より。
 数年前、黒くなった古品を纏めて入手した中に小椋石蔵のこけしがあった。
 今年の2月、三春文雄さんが東武デパートに来られた折、その石蔵こけしの写しをお願いした。その後、東日本大震災が起こり、写しが出来上がったのは8月になってからであった。三春さんの写しは「原」の一筆一筆を大事にし、見事なまでに石蔵を再現してくれた。
 そのお礼の電話でのやりとりの中で、石蔵こけしに関わる思わぬ話を聞いたのである。私の石蔵は着物が少し横にずれており、それは手描きによる誤差みたいなものと考えていた。ところが三春さんは、着物はきちんと描かれており、顔が少し横を向いているのだと思う。そしてそれは偶然では無く、石蔵が意識的にそうしたのだろうとのこと、これは驚いた。そう言われて、着物を正面にして見てみると、やや首を横に向けた乙女の顔は何とも色っぽい表情に変わったのである。
 このこけし、肩が撫で肩で、襟の合わせ目もかなり下がっており、それは石蔵こけしが復活から暫く経って作行きが落ちたものと思っていた。
 しかし、この発見から、そうではなく、それはより成熟した女性を現していることが分かったのである。石蔵こけしは成長していたのであった。
 石蔵、恐るべしである。この一本の石蔵こけしから、こけしは実に奥の深いものだと、改めて思った次第である。
 写真,蓮∪仟△海韻靴良従陲任后 
 写真△蓮∪仟◆扮Α砲箸修亮未掘文鏡、7寸)。以上。「例会ギャラリー」国府田恵一氏著より。

こけし工人・佐藤賀宏さんのこと

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 鳴子系こけし工人・佐藤賀宏さんは、昭和27年より岡崎才吉工人の下で椀・茶盆・茶櫃・菓子器・こけし等の木地修行をする。十年以上の修行後、昭和39年に現在の場所で独立すると同時にこけしの製作を始める。独立後も優れた木地技術を活かしてこけし製作と併せて木地玩具や椀・盆等の製作を行っている。
 平成23年2月末に開かれた「伝統工芸品展WAZA2011」で宮城県を代表され、伝統こけし・お雛様・達磨・木地玩具等を展示即売されていましたが、木地の仕上がりが素晴らしい事に感心しました。
 賀宏工人は才吉工人の伝統を引き継ぐ工人です。
 写真の賀宏こけしは、鳴子系こけしを代表する反った直胴に大きな頭で古い鳴子こけしを思わせます。 胴は菊模様、はっきりした面相こけしで全体的にバランスの良いこけしです。他に黄胴もあります。
 賀宏工人は木地技術が優れており、多くの木地玩具を製作している。中でも達磨・サンタクロース・雪だるま等は素晴らしい出来栄えで近くに置いておきたい気持ちにさせます。
 ※ しかし、賀宏工人は、平成27年8月20日亡くなられたのです。
 実は、佐藤賀宏工人は、30年も前に、松山のデパートに東北物産展で3年間ほど毎年来られたのです。すっかりフアンになって賀宏こけしを求めたのです。わが家には賀宏こけそした達磨が数本並んでいます。その後、鳴子こけしまつりに行った時、工房を訪ね、奥様のすづ子工人にもお会いし感動しました。鳴子こけし館に連れて行ってもらったりしました。その後、一昨年の鳴子こけし祭りに行った時、こけし館で、これから賀宏工房に行きますとお話したら、先日(8月20日)に亡くなられたことを聞いたのです。すごく残念に思いました。

「木地山系・鈴木国蔵から中川郁夫工人まで」  

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 『こけし手帖』平成23年9月 608号「例会ギャラリー」より。
 2月13日第35回秋田県こけし展で中川郁夫工人に初めてお会いしたのがきっかけで国蔵系列を調べてみた。
 ※鈴木国蔵 明治30年㋇湯沢に生まる。17歳の時能代工業講習所において木地を習得し、24歳ごろ独立。一時及位の佐藤文六のところで働く。昭和32年3月62歳で亡くなる。
 写真,6寸5分。昭和13年頃作。作り付け胴は太く、頭部は横に張り、頂部のロクロと前髪は弥治郎系に類似。他の文献に見ない珍しい型。
 ※鈴木幸太郎 大正11年6月生。国蔵長男。昭和13年ごろ父に付き木地を習得、戦前少しこけしを作った。昭和24年から本格的にこけしを作る。平成1年4月66歳で亡くなる。
 写真△7寸。幸太郎名義のこけし。製作年代不明である。これが国蔵型として継承されている。
 写真は6寸。昭和36年の作。目鼻口が顔の上部に集まり両目の目じりが上がっている。胴は花を3個三角形に配し緑の葉で囲んでいる。この型が幸太郎本人型と言われており、年代新しくなると黒目が大きくなる。
 ※井川武松 大正14年12月生。昭和22年から鈴木国蔵、幸太郎に師事。昭和35年からこけしを製作販売する。
 写真い3.5寸。友の会お土産こけし、切れ長の目は幸太郎の原に近い。
 ※中川徳二郎 昭和5年8月生。昭和38年より、義兄鈴木幸太郎に師事。昭和45年頃からこけしを製作する。秋田県こけし展の入賞常連工人である。最近こけしは作らない。
 写真イ6寸、本人型。丁寧な作風。
 ※中川郁夫 昭和30年4月2日生。56歳。昭和48年頃から伯父鈴木幸太郎に木地を習う。同時期、父徳二郎も一緒に働いていた。農業のかたわら伯父の鈴木民芸製作所を引き継ぎ、民芸品とこけしを製作販売している。こけし木地は、修業時代からやっていた。描彩は3年前から始めた。年に何回も作らないで、一本一本丁寧に作っている。
 写真Δ6寸。国蔵型、原より癖のない描彩と木地のバランスの良さは中々の佳作。
 「例会ギャラリー」こけし友の会・橋本永興氏著。(参考文献・略)
 

「湊屋嫡流のこけし」 その1

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 『こけし手帖』平成23年8月 607号「例会ギャラリー」より。
 今回は湊屋本流の佐久間由吉、芳衛、芳雄、俊雄の作品を通し一家の伝統を取り上げることにした。会長の提唱するこけしの検討を深める趣旨までは行かぬが、通常の拡張版と言った感で進行させて頂く。  由吉は土湯木地業の祖、亀五郎の嫡流として明治5年生を受け、12歳から父浅之助から木地挽きを習う。明治20年伊沢為次郎から一人挽きの指導を受けた。2度の水害で父は財を失うが30年から福島に出ていた由吉が一家を支えた。昭和に入りこけしブームが到来したが、土湯の名工と持て囃されたのは斉藤太治郎であった。嫡流としてのプライドに火が付き10年、製作を再開。土湯型、傘、帽子、髷、太子型の5種を作る。二人共、返しロクロを得意とし、太治郎が音楽的な線を描けば由吉は花を添え、太治郎の波の様な線には稲妻の様な線を描く等、土湯こけしの揺籃期の様子が窺い知れる。面描も最初は父浅之助に似ていたが、つぶし眼が徐々に大きくなる等顕著に変化した。由吉は35年米寿を全うし没する。
 ※ 写真,留Δ25年前後の髷、6寸。描彩は濃厚で油絵を見る様であり、眼は大きい。
 芳衛は明治31年由吉の長男として生れる。幼少時から木地挽きを父から仕込まれ洋家具の木地を挽く。父が15年末頃こけしの製作を中断した折、頼まれて19年頃迄少量作った。
 戦後は仕事の合間に時たま製作した様だ。32年没。58歳であった。偉大な父の陰に隠れた生涯で、意図的に作風を変え、父のかぶら頭に対し丸貌、彩色も父の濃厚さに対し淡泊なものであった。
 ※ 写真,2番目は戦後作の8寸である。
 芳雄は大正10年芳衛の長男として生れる。昭和15年頃から2年間、祖父、父から木地挽きを仕込まれる。旋盤工として上京、応召を経て20年末から再開する。父の死後、足踏みロクロを処分した為、木地が挽けなくなった祖父に代わって、32年から35年迄こけしの木地を挽く。父の没後、残った材料で暫く、こけしを作った。、、、つづく。 

「湊屋嫡流のこけし」 つづき

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 昭和45年頃こけしブームが再来、勧めにより木型作りの合間に少量製作する。細工物が得意で、極めてまてで、手を抜かなかった様だ。由吉を凌ぐ精緻な描彩で細かなロクロと波型を組合わせた華麗なものであった。又、精巧な孫持ち等を残した。平成8年没。75歳であった。昨日の写真,3番目。戦後作及び写真の右2本は49年作傘8寸。土湯型と髷。
 俊雄は昭和23年芳雄の長男として生れる。俊雄に関する文献は少なく、手帖546号の小川一雄氏の稿の中、矢田正生氏との交換書簡で紐解かれており引用させて頂く。
 51年11月決意して本格的に木地修業を始めるとある。父の写しから始まった様だが形態や描彩共に52年から58年の短い制作期間で変化する。研究熱心で先代を超え様とするからの創意工夫がみられる。嫡流たる所以か小寸の曾孫持ち等極めて精巧な仕上がりであった。材料確保が難しかった様で小寸が多い。病気静養の為入退院を繰り返し平成14年没。53歳であった。
 初期の作は眼大きく、明るく溌剌とした表情を持つが中期作は眼が少し釣上がり、髷等の飾りが精緻となる。後期は眉、眼ともに吊上がり、何かに挑むかの様な凄みを感じさせる。最後年では筆が太く、遠くを見つめるかの表情に変化する。
 昨日の写真,4番目は小生が平成18年、当会の入札で入手した6寸。底面に51年冬との書き込みがある。前述の小川氏と矢田氏とのやり取りを通じ」52年1月の試作や初頒布、前の作品と言うことが判った。眼の大きさ、顔の表情等デビュー作とは一線を画す様だ。写真の3番目は52年作。
 由吉から俊雄迄4代に亘り、先人達の資料を引用させて頂き綴ったが戦前戦後から現代へと時代が大きく変化していく中で、元祖の誇りと、家業を守り伝統を繋ぐことの重さ、難しさを4代のこけしを通し推し量られた。以上、終り。「例会ギャラリー」こけし友の会・平塚俊夫氏著。

「野地忠男工人のこけし」

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 『こけし手帖』平成23年12月 611号「例会ギャラリー」より。
 友の会の頒布でも人気のある野地工人ですが、その作風は時代とともに大きく変化してきています。その変化が野地作品蒐集の魅力の一つとなっています。今回は昭和の作品を中心に変遷を見ていきます。
 緑書房の昭和56年7月発行の「伝統こけしハンドブック」では、「渡辺和夫に師事して木地を修業、昭和52年6月26日より佐久間由吉型こけしを作っているが、きわめて優秀で土湯系のホープである。と紹介しています。
 しかし、当時のこけしは由吉型というより由吉のイメージを頭に自身で作り上げた独特の作風といえましょう。昭和52年から55年あたりまでは由吉の面影は一部でみられますが、56年以降は髷や笠、山高帽子、鉄兜、シルクハットなどの被りもの、顔もいわゆる味噌玉など、胴は三角胴や太子型、マント型など変化に富んでおり、これらの要素を組み合わせた多種多様な楽しいこけし群を作り上げてきています。
 野地工人がいわゆる写しものを作ったのは平成元年の「由吉鉄兜」が最初ではないでしょうか。由吉の腕白坊主のような表情を良く写しています。由吉写しを本格的にはじめたのは平成8年からだと思います。この年に西田記念館の佐久間由吉をモデルにした作品が「みちのくこけしまつり」で総理大臣賞を受賞、翌年の鳴子の全国こけし祭りでも最高賞の文部大臣奨励賞を受賞するなど大活躍で、以降現在まで人気工人の一人として良い作品を作っています。
 昭和の作品は毎年のように作風が変わっています。なかには同じ年のなかで前半と後半で大きく変化しているものもあります。また、署名も時代により変化しています。当初は「土湯野地忠男作」ついで「土湯系野地忠男作」「土湯野地作」「土湯のじ作」「野地作」と変化しています。
 また「作」の字体も変化していますので、これも鑑賞の一つと思います。
 野地工人の作品は小品が多かったが平成10年頃から尺二寸以上の大寸ものも作るようになりました。
 参考として平成元年の鉄兜写しと平成8年9年の作品並びに昭和の作品並びに昭和と平成12年までに製作された作品の写真とあわせてご覧下さい。以上。こけし友の会・河野武寛氏著より。
 ※ 野地忠男工人は、平成24年5月2日亡くなりました。享年80歳。現在は娘さんの野地三起子さんがこけし工人として活躍しています。
 

「佐藤好秋工人の中古こけしを楽しむ」

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 『こけし手帖』平成24年1月 612号「例会ギャラリー」より。
 私は、出来る限り昭和20~40年代に焦点を当てて手帖記事やギャラリーの題材としているので、今回は、佐藤好秋工人を取り上げたい。明治39年10月生まれ、平成3年3月84歳で亡くなられた。
 戦前のこけしは別として数はかなりの作品を残している。松之進の次男で、父が名工の為、プレッシャーを感じていたようだが、我流(自己流)の描彩で自分の型を作り上げている。話してみると気さくで楽しく、どこにでもいるお爺さんと言う感じだった。
 最初に入手したのが昭和39年で55才(35年作)のこけしである。(写真ァ法I従陝粉磴良舛方)と胴模様に興味を持った故中古で購入、新作を探すよう心がけたが、どうしても時代がだんだんとさかのぼってしまい、五本が集まった。
  |羝店〇圓砲董27年作以前?
 ◆~綾衢者が十分楽しんだからと快く、私に譲ってもらう。47才27年作。
  居酒屋に飾ってあったこけし、一年がかりで譲ってもらう。飲み代の方がはるかに高くついた。 
   52才32年作。
 ァ~綾辧
 Α/刑遒覇蝓60才40年作。
 この様に27年より40年頃まで、およそ20年間のこけしを並べてみると、伝統的な遠刈田系の良さを持ちつつ、少しずつ頭の形や目、鬢の変化がみられ、銘品とは言えなくとも楽しめて同時に非凡な才能を感じ、十分に評価してあげて良いと思う。
 好秋のこけしは、年齢より20をを引くと昭和の年代となるので判断しやすいと思う。
 以上「例会ギャラリー」こけし友の会・吉田博人氏著より。

「幻の三代目浅之助」

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 『こけし手帖』平成24年2月 613号「例会ギャラリー」より。
 土湯系の渡邊和夫工人(平成17年12月亡)は生前二代目浅之助を名乗っていた。和夫工人の祖母は浅之助工人の三女にあたる処から本人が二代目を名乗ったのではないのでしょうか。
 和夫工人には平成14年9月に銀座で個展を開いた時にお会いし、大変気さくな工人との印象を受けました。その後数年して不慮の事故で平成17年12月亡くなられた。翌年、二男の亨(とおる)工人がこけしを
製作するようになった。亨工人は小学校高学年の頃より木取りの手伝いをしており、中学生になって20本のこけしを作ったと言われている(こけし手帖560号)。
 亨工人は学校を卒業後、会社勤めをしていたが、和夫工人が亡くなられた翌年の平成18年より勤めの傍らこけし製作を始め、周りの人々の勧めもありその年の5月に開催された第48回全国こけしコンクールへ出品する。
 平成18年5月の「こけし山河」218号に紹介される。東京こけし友の会では平成19年7月例会で初めて頒布された。其の時は由吉型の直胴・太子型・笠・鉄兜・山高帽の5種類です。其の時の素晴らしい出来栄えを見てこけしを直に注文した。
 9月に入り5本のこけしが送られてきました。
 写真,留Δら二・三番目の山高帽・笠および四番目の太子型はらっこコレクションに掲載されている由吉型と良く類似しています。他は右の鉄兜と左の直胴です。
 7月に頒布されたこけしと比べて更に素晴らしい出来です。追加で製作をお願いしたいと思っていた矢先予期しない訃報です。
 若くこれから大いに期待された工人だけに何ともやり切れない思いです。
 写真△5本のこけしを収めた手製の箱です。留金に和夫工人のこけしを使用。会員の守屋清さんから教えを頂きました。以上。「例会ギャラリー」こけし友の会・田中厚志氏著より。

「直助と英太郎のこげす型」

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 『こけし手帖』平成24年5月 616号「例会ギャラリー」より。 
 毎度の事ではあるがテーマ選定に悩む。仕事に忙殺される毎日、進まぬ震災復興等溜まった鬱憤のせいかこけしに癒されたいと云う思いが募る。運よく保存の良い直助を手に入れることが出来た為、貯め込んだ英太郎の中から復活初期の物を並べ対比する事とした。
 写真右端,歪晶了兇掲澆4寸、古い遠刈田のこげすの約束事通り、頭部の飾りは蝶型で簡素化され、こげすの名の通りこけた肩、一筆目である。年代鑑別は頭部の形態、面描(長い鼻、口)、明るい表情、高い位置の駆んな溝等から昭和7~8年頃と推定した。
 写真の△らι萃掌紂44年)の英太郎作、△8月作の4.2寸散し梅。胴裏に「復帰第一作」との記載がある。胴底には直助型三十才の記述。カンナ溝等直助を見事に復元している。直助との相違は頭の形状と口に墨が入る点。
 写真のは9月に入手と所有者の記載がある。△帆瓦同手。
 写真のい10月の作の重ね菊、手絡、カンナ溝なし。
 写真のイ脇鰻邵遒諒貂⊆衢蹇▲ンナ溝なし。
 写真のΔ11月の散し梅、頭部蝶型、カンナ溝付きである。
 こけし辞典に拠ると、大阪の森田丈三氏の勧めによると製作第一期(33年から36年)、同第二期(44年から)、森亮介氏の熱心な勧めにより復活する。
 筆者のものは復活後の物である。
 慎重な中、太い筆使い等力強い作品である。8月の復活直後の物から11月迄お目に掛けたが数か月の中でも作風が変化し、バリエーションも拡がる。「こけし悠々」の中で今井氏、高麗氏の語る胴底の署名の変遷や、筆致の変化等数か月の中でも英太郎工人の気力、自信が漲って行く様が楽しめる。
 以上。「例会ギャラリー」こけし友の会・平塚俊夫氏著。

「りんご型入れ物と小寸こけし」

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 『こけし手帖』平成24年8月 619号「例会ギャラリー」より。
 小寸こけしを作製して頂くには若い工人へお願いするのが良いのではないかと思い修業中(平成20年)の阿保正文工人にお願いした。
 其の頃は師匠の六知秀型の牡丹とダルマ絵と幸兵衛型の牡丹とダルマ絵を製作していたので1.5寸と2寸でお願いした。出来たこけしを保管する入れ物を何にしたら良いかと考えたすえに津軽のリンゴをイメージした入れ物は如何かと思いお願いした。
 写真,留Δ最初に、中間が次に、左が最後に作製された。どれも津軽リンゴのイメージに合った出来栄えです。
 写真,虜乎爾郎鯒入手した阿保六知秀工人製作のりんご型入れ物です。中に多くの小寸こけしが入るようにと大きな入れ物となっている。
 中には写真◆扮βΔ六知秀工人)の2寸幸兵衛型笠・牡丹・ダルマ絵、2寸伊太郎型二本、2寸多兵衛型、1.3寸多兵衛型、2寸福太郎型三本それと修行を終えた正文工人(左側)の2寸六知秀型牡丹・ダルマ絵、2寸幸兵衛型ダルマ、牡丹絵(二本)、2寸伊太郎型、2寸福太郎型です。
 以上、「例会ギャラリー」こけし友の会・田中厚志氏著。

「佐々木与始郎のこけし」

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 『こけし手帖』平成24年7月 618号「例会ギャラリー」より。
 今回は先月のひやねの一金会に持ち寄った南部系の佐々木与始郎のこけしを紹介したい。
 予始郎は明治19年生まれ、南部系の代表的工人であり、志戸平、横川目で木地挽きを行った。描彩は妻センである。初期の作は「こけし這子の話」、「日本郷土玩具東の部」に掲載されているが、、、、
 写真の右側のこけしはこの時期のもので武井武雄氏蔵と同じ昭和3年頃の作と思われる。頭が極端に大きく胴よりもかなり太い。破格のバランスである。面描は筆太で素朴。古い南部の味わいを良く表している。頭飾りが全く描かれない簡素な描彩である。富士額で鬢が後ろにはねる様式は古い与始郎の特徴である。
 写真の左側は昭和5年頃、横川目移住前後の作であろう。胴の形態すっきりしてバランスが良い。面描は細くなって鋭さを増す。眼と鼻の間隔が広く、きつい印象を緩和して情味を豊かにしている。鬢は写真右側と異なり後ろにはねない。いわゆるピーク期の味を持ったこけしと言えよう。
 与始郎の年代変化はかなり顕著でこの後の木形子洞頒布、昭和十年代のこけしもそれぞれ特色のあるこけしである。また、戦後覚平木地セン描彩の中にも面白いものがある。
 以上。「例会ギャラリー」こけし友の会・鈴木康郎氏著。

「善吉とその写し」

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 『こけし手帖』平成24年6月 617号「例会ギャラリー」より。
 2年程前、インターネットのオークションに橘(木計子洞)頒布のこけしが纏めて出品されたことがあり、その中に大中小三本の善吉こけしがあった。
 善吉こけしを持つことなど夢のまた夢と思っていたが、目前にこのようなチャンスが現れると、蒐集欲が掻き立てられ、幸運も重なってこの三本を一遍に手にすることが出来た。木形子洞頒布の善吉は昭和7年に当たり善吉は中期の作で、評価の高い目の大きな迫力のある表情ではなく、やや寂しげな憂いを持った表情が特徴である。
 だがこうして三本を並べて見ると、小は元気でやんちゃな幼子を、中は初々しい乙女を、大は二人の子供を優しく見守る母親のように思えてしまう。
 それは昭和初期の東北の家庭そのものであり、見ている内にその時代にタイムスリップしてしまうようである。 
 一昨年暮れ、山河の響きの会の東京展で上京した荒川洋一さんに、この三本の写しをお願いした(写真◆法0貲余りを要して出来上がった善吉の面影を再現してくれた。面倒なお願いを引き受けて頂いた洋一さんに感謝したい。
 写真,倭欝箸海韻靴任后写真△詫琉譴気鵑料欝伴未靴里海韻靴任后
 以上。「例会ギャラリー」 こけし友の会・国府田恵一氏著。

「北山賢一工人二度目の知事賞獲得」

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 『こけし手帖』平成24年4月号より。
 「北山賢一工人二度目の知事賞獲得」こけし友の会・沼倉孝彦氏より。
 第36回秋田県こけし展が2月11日~12日の二日間行われた。数年前から犬っこ祭り会場により近い湯沢生涯学習センターで行われるようになり、来場者数も目に見えて増加した。その傾向は今年も維持され、多数のこけしファンや観光客が会場を訪れた。
 今回は高橋久宗、小野寺正徳、中川徳三郎、小椋利亮の四工人が諸事情で出展出来なかったものの、出展各工人ともに出品本数を増やすなど努力、また、小椋英二工人も新たに加わるなど、全17工人の作品が展示スペースにところ狭しと並んだ。
 こけし展の主要部門の一つでああるコンクールでは、北山賢一工人の米吉型が秋田県知事賞を獲得した。表彰式の審査講評で「北山工人ここ十年来で最高の出来」と評されたものである。
 北山賢一工人は、これまで米吉への没頭や久四郎への傾倒など、その都度作風を極めた時期が何度かあったが、今回はまた作風が穏やかに大きく変化した。これが、伝統こけしに必ずしも精通している訳ではない(と思える)審査員も含め、審査で多くの共感を呼んだようで県知事賞という頂点を極めるに至った。最高賞受賞は第11回以来、実に25年ぶりのことである。
 参加工人の減少もあって二日間の総売上を懸念したのだが、終了後の会で昨年より上回ったと報告を受け、昨年から実行委員会を重ねてこけし展に向けて準備して来たことや、三日間の皆の努力が最後に報われた思いがした。これも各こけし会の例会やHPでのご紹介もあってなし得た事であり、感謝の念にたえない。 
 来年度は市役所本庁舎の建て替え工事が始まることになっており、犬っこまつりは市の中心部から多少外れた場所での開催が予想されている。この近辺にはこけし展を開催できるような施設はなく、こけし展も開催時期や会場など再考を迫られている。何れ、市のこけし展補助事業は継続される予定なので、各位のご意見を伺いながら、工人会中心に我々スタッフ一丸となって、次回の成功に向け鋭意努力したい所存である。以上。
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