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Channel: こけしおばちゃん
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「平賀謙次郎を偲んで」

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 『こけし手帖』平成24年6月号にて。こけし友の会・平塚俊夫氏著より。 
 平賀謙次郎工人の訃報が届いた。2月14日逝去。享年92歳でした。工房で輝幸、謙一工人と三人並んでロクロに向うお元気な姿が彷彿されます。
 謙次郎さんとの出会いは30数年前、家族旅行で作並温泉を訪れ、家内がお土産として買い求めたこけしが謙次郎工人の作で我が家の第一号のこけしとなりました。爾来こけしとの関わりが始まりました。
 謙次郎工人は大正7年11月17日謙蔵の二男として作並に生を受け、昭和5年から父に就き木地を修行し、翌年、こけしや玩具を製作する。兄弟弟子には兄の多蔵、翌年応召、16年帰郷、謙次郎名義でこけしを製作する。17年結婚、以降こけしや玩具を専門に製作する。30年には動力ロクロを導入し木地が変化する。
 43年、長男謙蔵の後継者として教えを忠実に伝承し、戦前の作品は謙蔵の作と見紛う。上瞼が極端に曲がり、両端が下側に垂れ下がる。戦前作は特殊な情味があると云われている。戦後の作品は新型の影響が多く表れてくる。瞼の曲がりはなくなり、鼻は小さく、両鬢も短くなる。戦前作とは同一工人の作とは思えない程表情は甘くなる。以後作柄に大きな変化は見られない。
 写真の右側は13年作、鹿間時夫著「こけし・人・風土」掲載の謙蔵作とされたもの。緊張感が表情に漂う。写真の中側は30年作。写真左側は54年作、前述の我が家の第一号こけし。工房で謙次郎工人から作り立てを手渡しされた思い出深い、めんこいこけしです。
 5年前、山寺のこけし供養祭に参加の折工房にお邪魔しましたが、黙々とロクロ挽きに余念なく一日100本を目標とされているとのことでした。疲れると野菜畑や花畑の世話で気分転換をし、間違って奥さんの花の芽を摘んで叱られた等のエピソードも楽しい思い出です。
 3年半前、転倒による大腿骨の骨折の折も驚異的な精神力でリハビリに励み見事に復帰をされたとの由です。
 伝統工芸士、宮城の名工、平成6年には叙勲と作並の嫡流としてその伝統を守り抜かれました。後は輝幸さんがバトンを繋ぎ頑張っています。ご安心下さい。謙次郎さん本当にお疲れさまでした。合掌。

「真鶴アートミュージアム」 

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 『こけし手帖』平成24年6月 617号より。こけし友の会・吉田博人氏著。
 3月中旬に、ミュージアムの館主より「ここに来れば『こけしが分かる』展」の企画展の案内状を頂いたので興味を持ち真鶴の散策方々、訪問してみました。
 企画展は、女性をテーマにした絵画・彫刻と少女をモチーフにした「こけし」を取り合わせ、春から初夏にかけての華やかな雰囲気の展示会となっています。
 今、若い女性の間に「こけし」がぶーむになっています。「かわいい!」と心を動かす以外に、馴染みの方にとっては素朴さの中に懐かしさが滲み出し、若い方には新しい日本人の心の証として楽しんでいただきたい。(案内書、パンフレットより転記)と書かれている通り、若い女性の眼から見たこけしですので、目鼻立ちのしっかりした中に、口元が綻びる様なこけし達でした。
 各系統別に2~5本を展示し、その系統の特徴をパネルにて説明・紹介しています。
 展示されているこけしの主なものは、佐藤忠雄、松田精一、瀬谷重治、盛秀太郎、小椋久太郎、小椋正吾、佐藤昭一、岡崎幾雄、岡崎斉司、新山亨、佐藤伝喜、小林忠次郎、平賀輝幸、鈴木明、大沼昇治等(敬称略)、大きさは一尺六寸から五寸まで各種、主催者に選ばれて微笑みかけてくれていました。
 これらのこけしは、館主のお父様の蒐集品で昭和35年頃より集められ、子供心に親しみ、今の時代に合うようにとご自分の眼で選ばれたそうです。
 企画展のもう一方は、シャガール、梅原龍三郎、ガレ、ルノワール、林武、ルオー、とそうそうたるメンバーの作品が目白押しに並び、同行の人にとっては至福の時を過ごせると思います。このミュージアムは、築50年の木造旅館を改造した店舗で、入り口に岡本太郎の河童像が微笑みながら迎えてくれ、趣きのある建物です。場所は、真鶴町真鶴1200-18です。写真は展示こけしの一部です。

「やみよこけし」

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 『こけし手帖』平成24年8月 620号「例会ギャラリー」より。
 「やみよこけし」は輪に胴が入ったこけしを言う。
 木地玩具の「やみよ」は「日本の木地玩具」文化出版局出版に掲載されている。
 写真 ̄Δ郎監5版圭遏5寸、昭和34年作。写真〆犬郎監E郎作、5寸、昭和50年頃の作。
 やみよこけしの作者で良く見かける遠刈田系の佐藤哲郎工人に直接聞いてみた。やみよこけしは佐藤哲郎と佐藤吉之助が子供の玩具おしゃぶりと輸入のやみよ人形を見ていろいろ工夫して作り出した。
 昭和31年ごろより作り始め昭和33年に意匠登録を受けている。製作は輪を切り取る技と道具の作り方で大変苦労した。 
 考案は祖父吉五郎より木地師として人の後を追うのではなく、他人の持っていない技を身に着けるように言われたのがきっかけになった。(哲郎工人の手紙より平成24年2月10日受)
 現在集めたやみよこけしは、写真△猟未蝓1Δ茲雖“嵬椶歪紅撒掘6寸。 番目は緑川正人作、6寸。吉之助、哲郎工人を継承する佳作。写真H嵬椶蓮∪篤N品綺遏4寸「こげす」に輪を付けた。
 写真のと嵬椶蓮土湯系西山憲一作、8寸。傘に返しロクロ模様は手が込んでいる。ト嵬椶蓮¬鳥匏蝋盒教前貂遏6寸。輪が一個である。θ嵬椶蓮¬鐚O嵯録兄蛙人拡遏4寸、外観と輪が一致して良い。
 番目は、新山実作、2.2寸。番目は、山形系小林清作、2寸。番目は、肘折系斉藤右内作、1.8寸。А銑の工人の小物技術はそれぞれ特徴があり楽しい。
 この他にも「やみよこけし」を作る工人さんが居ると思う。そのこけしを探求するのも収集の楽しみである。以上、こけし友の会会長・橋本永興氏著。

「ザ・訪問(蒐集家)!」

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 ザ・訪問!春日寛司さん。
 我々こけし蒐集家にとって、他の蒐集家がどのようにコレクションを蒐集・保管しているかは気になるところである。最近、精力的にコレクションを充実させている会員の春日寛司さんのお宅を訪問し、コレクションを拝見させて頂いた。
 都下日野市にある春日邸は自宅とご子息用の二棟があり、現在使われていないご子息棟もこけしの保管場所という恵まれた環境となっている。
 春日氏がこけしと出会ったのは。昭和三十年代の末頃、当時集めていた郷土玩具の一つとしてあった。その後、氏は海外勤務が主体となって、こけしとも疎遠となっていた。海外でも土地土地の小美術品や民芸品等を集める一方、乗馬やダンスなど多様な趣味にも打ち込んでおられたそうで、自宅には家族全員の乗馬用の鞍やダンスの練習用の部屋まで完備している。
 そんな中、再び氏の目がこけしに向けられたのは仕事も仕事も一段落した数年前から、海外を回る生活の中かあら、こけしの持つ日本的な美しさを再認識したからだという。
 こけしは豆こけしから四尺超大物までが邸内の至る所に所狭しと並ぶ様は圧巻だ。
 氏の収集方法は特定のものを集中的に集めるのではなく、戦後のものを中心に網羅的に集めている。
 ただ、大沼力や高橋義一さんのこけしは寸違いで一寸から五寸程まで三十本程揃っていたのが目に付いた。
 氏は数が減っているこけし工人を支えるためにもと、友の会や産地のイベントにも積極的に参加し、益々コレクションを増やしておられる。
 都心部で大物を集められる数少ない蒐集家でもあり、今後の活躍に期待したいと思いつつ帰途に着いた。以上。こけし友の会・国府田恵一氏より。

「黒田ムメノのこけし」

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 『こけし手帖』平成24年11月 622号「例会ギャラリー」より。
 今回は山形系、黒田ムメノを取り上げることとした。ムメノは夫が航空会社で軍事用部品等の木地を挽いており、同僚に小林吉太郎がいた事が縁で昭和13年夏頃、吉太郎の描彩を手伝い始める。最初は胴模様の葉と茎を専らとし、半年後から花を手掛け、吉太郎から花の描き順を幾度となく手解きを受けたと云う。その後、面描迄、一切を任される様になったと云う。
 当時は第一次こけしブームで、とにかくこけしが売れ、大量に清算をする為、梅津春雄、蓼科茂の木地に吉太郎、ムメノや堀実が描彩専門に行い全て吉太郎名義で販売されたと云われている。
 ムメノの物は吉太郎の描彩に較べ、上下の瞼が平行で湾曲が少なく、全体として線が細く瞼が下がり気味である。
 昭和18年吉太郎の死後も前述の工人の木地に描彩を続けていた。戦後は製作を休止していたが、昭和39年の友の会頒布と昭和44年、箕輪新一氏の勧めで製作したものが残っていると云われている。
 写真は左から師匠、吉太郎の昭和14年から15年の作。頭は丸く面描は穏やかながら眼光は鋭い。横鬢の手絡が鶏冠型とは異なり昭和初期に描かれた3の字崩れた型であり興味をそそる。胴模様も花冠も大きく筆致が速い。
 2番目はテーマのムメノ昭和15年作、山形のこけし掲載作と同手と思われる。木地底部には旋盤のセンター穴が残る。描彩もスピード感ある筆致だが吉太郎の様な闊達さはなく丁寧に描かれている。
 3番目は底部に本人の署名と共に53才作との記載がある。34年作となり文献とは異なる。木地は長岡要一と思われる。頭は平たく眼は吊上がり、溌剌とした表情をしている。一方胴模様の花冠は大きく雄大である。又、下側の梅模様も力強く鋭い。
 4番目は昭和39年の友の会頒布、木地は長岡要一と思われる。
 右端は箕輪氏の勧めで製作された昭和44年作、木地は梅津春雄と思われる。面描もかなり変化がみられる。筆致もゆっくりしたものとなる。目尻も一段と下がった様だ。師匠の吉太郎とムメノのこけしを並べ鑑賞して見たが描彩の変遷の中でも師匠の教えが息づき、伝統の確かさがあ再認識された。
 以上。こけし友の会・平塚俊夫氏著
  

みちのくこけしまつり

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  『こけし手帖』平成24年12月 623号より。 
 山形市で10月27日(土)・28日(日)の両日開催されたみちのくこけしまつりは前日に審査会が行われ、伝統こけしの部および木地玩具の部へ昨年を上回る出品があった。
 初日の開会式が始まる頃には前日から並んだ人を含めて百名以上のこけし愛好家の列が出来る盛況で事前に整理券が渡されたと聞いた。
 会場に入ると友の会創立55周年記念旅行会で4年前に訪問した際の記憶が蘇る。二尺こけし4本は30分程で完売し招待工人のブースでは人垣が出来ていた。午前中にはコンクールへ出品した審査対象のこけしの多くは愛好家の手に渡った。友の会会員の方が青森・秋田・栃木・東京等から多数参加されていて久し振りの再会が出来た上に近況を伺えた。主催者の方々も盛況さに驚きを隠せない様子であった。
 内閣総理大臣賞に佐藤保裕工人(遠刈田系)の本人型重菊九寸(写真)、文部科学大臣賞に小椋英二工人(木地山系)の一尺、農林水産大臣賞に新山真由美工人(弥治郎系)の福雄型一尺、経済産業大臣賞には荒川洋一工人(土湯系)の善吉型一尺二寸が受賞した。
 佐藤保裕工人は昨年の全国こけし祭りコンクールに続き大賞を取り完成度の高いこけしとの高い評価を受ける。小椋英二工人は伝統を継承した木地山こけしで父親の留三工人のこけしを彷彿させる素晴らしい出来栄えです。木地玩具の部において佐藤康弘工人(遠刈田系)が「豆茶道具台子飾り」で経済産業大臣賞を受ける。父親の正廣工人から受継ぐ素晴らしい木地技術を発揮した作品であった。
 招待工人は山形に避難中の高橋通工人(土湯系)・阿部進矢工人(蔵王系)・新山吉紀工人(弥治郎系)・佐藤保裕工人(遠刈田系)・笹森淳一工人(津軽系)の五名で、通工人と淳一工人は奥様同伴、進矢工人は子息と準備および愛好家への対応をしていた。
 山形こけし工人の方々ともお会い出来、素晴らしい多くのこけしとの出会いも有り素晴らしい旅行でした。以上。こけし友の会・田中厚志氏より。
 ※ 懐かしい「みちのくこけしまつり」私は平成19年に初めて参加した。当時はこけし仲間もいなく、沢山のこけしに驚き、感動したのです。帰りの旅に、山寺のこけし堂や芭蕉の句に出会い、今、懐かしく思いだしています。

井上四郎=初期作こけし=

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 一人の工人のこけしを集めだすと、多くを持ちたくなり、年代を揃えたく成ります。そして初期作を求める様に成ります。
 井上四郎工人は私の好きな工人の一人で大好きなこけしです。井上一家も大好きです。写真の四本のこけしは私が収集し始めた昭和50年より以前の作です。それは昭和50年代以降新しい四郎こけしを入手すると、「井上四郎」と著名してありますが、この四本は「四郎」の署名です。
 私は井上四郎のこけしを「四郎」と「上四郎」の時代に分けています。「四郎」こけしは『井上』と『四郎』とが並列に署名されてますが、「上四郎」こけしは『井上四郎』と縦書きに署名されています。
 ,蓮4寸で48年2月5日の稚拙なこけしで、眉は描きなれていない感じがします。保存状態は良くありません。友人から平成8年3月に入手。その時にはこの様な状態であり、日付入りの「作」付に魅せられて入手。
 △蓮6寸で、3・24の署名。多分昭和48年ではないかと判断してネットで最近入手したあもの。 
 は、6寸で、48年3月31日の署名。以上 銑のこけしはベレー下の半円状の髪飾りは赤・緑のの4個(,領个話犬い痕あり)で「四郎作」がついています。
 い蓮5寸で半円状の髪飾りは赤2個で、「作」がなく、日付もない。
 、い呂劼笋佑琶神23年8月に入手。また、こけし春秋 33(P340)に渋谷利一郎氏が書かれている一文から、昭和48年頃よりこけしを作り始めたと思われる。
 工人として10年弱の仕事であるが、初期作の特長は署名が「四郎」で「作」が付いたものほど古く、半円状の髪飾りが赤・緑の4個であるものほど古いことです。
 以上が私が集めた四郎こけしからの ”こたえ”です。
 最後にこれを読んで下さった皆様に井上四郎こけしに興味を持って頂ければと思います。以上。こけし友の会・目黒一三氏より。
 ※ 我が家の「井上四郎こけし」は、必死で見つけましたが5寸物3本「井上四郎」と署名しています。昭和50年以降の作ですね。

「続阿部常吉のこけし」

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 『こけし手帖』平成25年1月 624号「例会ギャラリー」より。
 今回は例会前日に急遽代理を依頼されてギャラリーに登板ということになり「阿部常吉」のこけしを取り上げることにした。
 阿部常吉のこけしについては平成19年4月のギャラアリーにも紹介しており今回は続編になる。    写真,蓮∧届仮頴〇瓩竜貘品で「こけしの美」のカラーページや「こけし辞典」にも掲載された現物である。
 写真△蓮∨秬現せ甬貘◆いずれも昭和初期の作と思われ常吉としては最も古い部類に入るもの。表情に張りがあり、また味わいも深い。量感があって強い表情が印象的である。
 写真は、常吉のエジコ類、こちらは写真,筬△鉾罎戮襪半し後のものだが丸い頭に凝視度の強い表情が楽しい。こうしたものを見ているとまだまだ常吉のこけしの収集は止まりそうもない。
 以上。こけし友の会・すずき康郎氏著。
 ※ 蔵王系・阿部常吉工人(明治37年~平成3年、享年87才)は、大正15年より父、常松について木地を習得。常松は土湯出身だが、蔵王系、山形系、など加味して温湯独特のユーモアあふれる独特の型を完成した。常吉はそれを継ぎ、ボリューム感溢れる逸品だが、最近寡作である。現在は息子の阿部進矢工人(昭和12年生まれ)が活躍いている。

「山寺こけし塚供養祭」

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 『こけし手帖』平成25年1月号より。「第44回山寺こけし塚供養祭」
 11月23日(祝日)に例年により遅く山寺こけし塚供養祭が芭蕉ゆかりの山寺に隣接する日枝だ神社境内にあるこけし塚の前で行われた。
 山形駅を経由して仙山線山寺駅に着いた頃は、雨が降ったり止んだりを繰り返し何とも安定しない天候であったが、駅からは山寺の見事な景観と紅葉が望まれた。
 近くの石山和夫工人のお店兼工房を訪ねてお話をする。最近、若い女性が弟子となり修業中であると大変嬉しい話題と製作したこけしを見せて頂き期待をして会場ヘ向った。
 式が始まる頃に生憎の雨となりテントを張っての供養祭となった。周辺を彩る紅葉の中、こけし工人・こけし愛好家および関係者が参列する中で立石寺七十代住職による読経、参列者全員の焼香、筆供養が行われ無事終了した。今年はこけし塚へ入る方はいなかったが、現在までに64名程のこけし工人・こけし愛好家・関係者の方々が合祀されているとお聞きした。 
 その後、直会が「ふもとや」で行われ、山形県こけし会の梅木修一工人の司会、会田栄治会長のご挨拶で始まった。44回の供養祭を振り返りながら、こけし工人や関係者、また東京こけし友の会の先輩諸氏を偲びながら芋煮をいただいた。
 今回は福引が無く、平塚安兵衛工人(104歳)作のこけし塚記念長寿独楽が全員に配られた。
 会田栄治山形県こけし会長よりこの独楽を持っていると長寿間違いなしと話されたので大事にしたいと思った。昭和43年10月に建立されて以来44年に亘り毎年供養祭が立派に執り行われている事に感謝の気持ちと敬意の気持ちで一杯である。以上、こけし友の会・田中厚志氏著。
 ※ 平成19年やまがたこけしまつりに参加した時、山寺に参拝した。こけし塚にもお参りしました。しかし、大好きな会田栄治工人は平成27年3月11日、85歳で亡くなられた。残念ですね。  

「弥治郎初挽き」

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 『こけし手帖』平成25年3月 626号より。
 1月2日 東京は穏やかなよい天気、早朝に家を出る。お正月の中日なので町は静まりかえっている。東京発7時12分のやまびこ123号に乗車し白石蔵王へ。福島を過ぎると霙交じりの雪になる。9時7分定刻通り到着、日本の鉄道は本当に正確だなーと思う。 
 たまたまお客さんご一行を駅まで迎えに来られた平賀輝幸工人の車に一人空席があるとのことで、有り難く便乗させていただく。
 10時からこけし村の神社で神主によるお払いが始まる。続いて新山吉紀工人によるこけしの初挽きが行われた。あいにくの雪ではあったが厳粛な儀式で大変興味深く拝見させて頂く。
 お昼頃から近くの体育館で懇親会が行われた。50~60人程の参加があった。白石市の役員の方々、遠刈田を初め近郊から参加の工人の方々と祝辞が続く。新山真由美工人をはじめ工人の奥様方による民謡等を楽しく拝見。その後福引があって皆大喜び、私は新山左京工人の尺が当たる。
 吉紀工人真由美工人ご夫妻は、先月一週間ほどフランスのパリ、ルーブルでこけし製作の実演をされてきたとのことで、私も以前のフランスに多少関わりを持っていた関係でフランス談議に花が咲く。
 福島まで帰る人がいて、やはり空席があるとのことで厚かましくもまた便乗させて頂く。
 こけしの好きな人はなにか心の暖かい人が多い。ほのぼのとした気持ちで帰途につく。
 現場で購入した吉紀工人の尺五寸とまげの二尺を眺めながら原稿を書いております。以上。
 (こけし友の会・春日寛司氏著。)より。

佐久間俊雄工人の小寸こけし

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 『こけし手帖』平成25年4月 627号「例会ギャラリー」より。
 佐久間俊雄工人に関する資料は乏しいが、反面小寸こけしに関しては素晴らしい物が多いが入手する機会は少ない。特に初期のこけしに遭遇する事は稀である。
 俊雄工人は土湯系湊屋系列の浅之助・由吉・芳衛・芳雄と続く直系の最後の工人です。湊屋系列には芳雄工人の弟子で渡部和夫(故人)、和夫工人の弟子として野地忠男(故人)、岩附義正。太田精二工人および野地忠男工人の弟子で今年の新年例会で招待工人として来られた野地三起子工人がいる。
 俊雄工人は芳雄工人の下で昭和51年11月より本格的に修行を行い、7年間に渡りこけしを製作しているがあ、昭和55年のほぼ一年間と昭和56年8月から昭和58年3月までは病気のため製作が出来なかったと云われている。また木地材料が乏しかっ為に大きいこけしを製作できず、小寸こけしの製作が多いと云われる。平成14年3月に56歳の若さで亡くなった。
 写真は、右から笠・地蔵型(2寸2分)、昭和52年作、笠・赤と黒と返しロクロ線(2寸9分)、鉄兜・赤と緑のロクロに花模様・地蔵型(3寸2分)、シルクハット・赤と緑のロクロ線・三角胴(3寸4分)、昭和56年1月作・赤と黒の返しロクロ線・三角胴で病気の為か表情が非常に強い(4寸7分)、赤・黒・緑のロクロ線と花模様(3寸1分)、赤・緑ロクロ線直胴(2寸7分)、赤・黒。緑のロクロ線直胴(2寸6分)、左は赤・黒の返しロクロ線三角胴(1寸5分)である。どれも素晴らしい木地の仕上がりと描彩である。
 1寸5分の豆こけしにも返しロクロ技術が使われている事に驚きを憶える。
 俊雄工人の小寸こけしは全神経を集中させて一心に作り上げた本当の【木の宝石】と言えるのではないでしょうか。フォルムと描彩の素晴らしさに加えてセンスの良さが光る最高のこけしである。
 

〈ザ・訪問(工人)!〉 伊豆徹さん〈〉

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 『こけし手帖』平成25年5月 628号より
 3月6日、団体ツアーの宿泊地が銀山温泉だったので、事前の連絡もなく伊豆工房を訪ねてみた。大正ロマン漂う温泉街の手前、温泉街からの雪道を歩くと20分ほどかかった。
 道路脇の高い雪壁に囲まれた「伊豆こけし工房・工芸館」に着いてみるとシャッターが閉まっている。外から電話をすると伊豆徹さんが出られ、入口を開けて中に入れてくれた。水曜日は休みなのだそうだ。 店(みやげ店)の中を一通り見せて貰い色々と話を聞いていると、座敷の方へ上げてくれた。こちらには、徹さんの様々なこけしや木地製品が置かれていた。
 伊豆さんのこけしと言うと、お父さんの護さんが作った「おしんこけし」や「誕生こけし」が有名であり、誕生こけしは赤ちゃんの身長と体重までも同じに作るそうで、30年間で 2万本も作ったという。
 その一方で、徹さんは伯父にあたる定雄さんの古いこけしも研究しており、「定雄型」として復元している。
 なお、私が訪ねたのは、工芸館の方で、本店(自宅)は銀山温泉街の奥まったところにあり、徹さんも夜間は自宅に帰るのだと言う。本店ではお父さんの護さんが健在で徹さんの木地に描彩をしており、その護さんのこけしが中心に置いてある。徹さんのこけしは工芸館の方で手に入る。
 特徴のある「銀山こけし」を今後も期待し見守っていきたい。
 こけし友の会・国府田恵一氏著より。

「第38回土湯こけし祭り」

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 『こけし手帖』平成25年6月 629号より
 第38回土湯こけし祭り(平成25年4月20日・21日)こけし友の会・春日寛司氏著より。 
 東京8時40分のやまびこ53号に乗車。福島に10時11分着、気温はかなり低い。10時30分のバスで土湯温泉へ。小一時間程度で到着、丁度桜が見頃。まだお祭りまで時間があるので西屋、まつや、ひさご等を訪問しお話を伺う。山根会津屋では元福島大学長の玉山勇先生のコレクションの抽選即売会があって参加する。見聞録館、伝承館、アサヒ写真館で沢山のこけしを観賞する。こけし、筆供養祭が薬師こけし堂で行われた。お坊さんのお経と共に楽しませてもらったこけしやお世話になった筆を火にくべる。皆感謝の気持ちを込めて黙祷する。
 町の中心にある広場でいよいよ開会式が始まる。陳野原幸紀会長、渡辺隆副会長の挨拶、来賓の祝辞が続く。こけし製作実演、販売が開始された。早速、渡辺鉄男工人の第38回にちなんだ3尺8寸のこけしと小火鉢かと思わせるえじこを頂く。楽しみな抽選券付6寸こけしの販売が開始された。5本買って全てはずれで残念賞の絵馬を頂く。色紙のプレゼントやら特設出店コーナーでは長い列ができていた。かなりの人出で若い人が多い。来場の先輩の話では最近、愛好家の質が変わって来ているとのことである。
 交歓会では、こけし工人組合の開会の挨拶、東京こけし友の会の橋本永興会長、秋田こけし会の京野進会長の祝辞と続く。各自にこけしとこけしの手ぬぐいがお土産に付く。宴たけなわの所でこけしの抽選会が始まり一同大喜び。私は思いも掛けず2尺の傘こけしが当たり(写真◆砲△蠅たく拝受する。
 翌日は夜半からの雪で一面真っ白。露天風呂から見る雪景色は墨絵の様で美しい。午前中はお祭りに顔を出してバスで福島へ。弥治郎、湯沢、土湯と今年3回の東北こけし旅行は全て雪となった。以上。
 ※ 私は土湯こけし祭りは参加していませんが、様子がよく分かりました。

「文吉の一側眼」

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 『こけし手帖』平成25年6月 629号「例会ギャラリー」より
 佐藤文吉のこけしは何時もながら私の気持ちを焦がす。何本所有しても尽きることがない。先達の表現を借りるとその表情からアルカイックスマイル、きれいさび、そして強烈なエネルギーの発散等、見る者、所有する者の心を打つ。その要因は眼の描彩に拠る処が大きいと思われる。表現上大きな制約を受ける一側眼では如何なのかを取り上げてみたい。
 下瞼があるかないかで表情の表現は激変する。眼は口ほどに物を言う。眼は心の窓等と云われ、工人も眼の描彩には心を砕き、面描に於いて上瞼と眼点のみで表情を表すことは極めて難しいものと思われる。
 今回手持ちの5本のこけしを並べ、描彩の変化、変遷を取り上げてみたい。 
 文吉は、大正11年生まれで、初作は12年、15歳と云われている。戦前は余りこけしは作らず、戦後は31年から本格的にこけしを製作した様だ。
 写真左から年代順に並べてみた。 のこけしは14年、17歳の作で旧溝口コレクションにあったもの。祖父、師匠の型を倣ったものと思われるが木地、描彩共も巧みではないが後の文吉が取り組んだ様々な要素がある。文吉の原点なのかとも思う。眉は平らかに引かれ眼は茫洋として遠くを見つめている様だ。初期の作なのに老成した感がある。 は26年、35歳の作。打って変わって、眉は細く湾曲し、眼点が丸く極めて大きい。少々違和感はあるが当時の流行を取り入れたものかと思う。恍けた表情が面白い。
  は底部に署名と共に文六型及位と書かれている。鬢の位置が高いことから32年から33年頃かと思われる。眉は更に細くなるが眼点も小さくなった様だ。表情は明るく笑いを絶えている様な感がある。
  は38年、45歳の作。この時期はまだ頭は長い。鬢の位置が下がり、眉は太くなるが俯き加減で少々寂しげな眼をしている。色彩も淡い。
  は底部に文吉と署名のみが記されている。頭部は横広がりとなり、胴が太くなる。眉は太く眼力を感じる。年代は40年と思われる。作品を通じて一側眼の表情の奥深さを感じさせられた。以上。 
 こけし友の会・平塚俊夫氏著より。

「私の好きな戦後のこけし」展

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 こけし会としては最も会員数が多く、中心的に活躍されておる東京こけし友の会の皆さんの選んだ「私の好きな戦後のこけし」展にどんなこけしが出品されているかは、こけしに関する情報の少ない地方在住者として大いに興味を感じるところであった。展示されたこけしに関する内容については既に言及されている方がおられようから、ここでは単純に数学的に眺めた結果を述べたい。
 本こけし展に出品された方の総数は74名、出品されたこけし本数は341本であり、選ばれた工人数は149名であった。
 戦後活躍した工人数を明確に知る資料が見当足らないので「東北のこけし」の工人名簿から昭和20年までに逝去した工人並びに逝去年の不明な工人を除外したものとした。
 好きな工人として選ばれた149人の系統別内訳は、鳴子系30人、土湯系29人、遠刈田系21人と続く。系統別に総工人数が異なるので、系統別に好きとして選ばれた工人の割合を調べると、土湯系30.6%、弥治郎系26.2%、山形系21.8%と続く。両者の順位の違いはこけしを系統より工人で選ぶ傾向の現れと思われ、系統別では好まれる上位の順位はつけ難いと感じた。
 次に出品者側から見ると、土湯系を好きと選んだ出品者は41人(出品者の55%)、次いで津軽と鳴子が29人(39%)と続いている。
 次に工人別に選ばれた本数を調べてみた。最も選ばれたのは佐藤文吉16本、次いで井上ゆき子14本、野地忠男13本、今晃12本と、4工人が際立っている。佐藤文吉を選んだ出品者は11人(出品者の15%)、井上ゆき子、今晃を選んだのは各8人(11%)である。なお、3本選ばれた工人数は19人、2本選ばれた工人数は21人、1本選ばれた工人数は83人であった。
 以上の結果から、好かれている系統、好かれている工人の凡その実態を知ることが出来る。今回のこけし展からは参考になることが多々あり、これからも同様なこけし展を期待している。
 ※ 『こけし手帖』より。平成24年7月から9月まで仙台カメイ美術館で開催された「私の好きな戦後のこけし展」高井佐寿氏著より。写真は別です。

華麗なる変身(希三こけし)   

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 『こけし手帖』平成25年7月 630号「例会ギャラリー」より。
 一人の工人のこけしを年代順に見ていくと、変化があまり無い工人と激しい工人がいるのが分かる。鳴子系で言えば、前者の代表が武蔵、後者の代表が希三だろうか。
 後藤希三は、明治41年生まれ、幼い頃から大沼新兵衛宅で育ったことから戦前は大沼希三と呼ばれていた。小学校卒業後、木地は県立工業講習所で丹野勝次に学んだが、こけしの師匠は特にいない。従って、見取りと言っても良いのであろう。 
 昭和10年代に入って第一次こけしブームになると多くの木地師がこけしを作り始める。希三もその一人であった。とは言え師匠の居ない身なれば誰かのこけしを参考にするしかない。そこで以前一緒に働いていた大沼竹雄のこけしを真似たのであろう。
 希三のこけしが出回るのは昭和14年頃から。写真左から´△それである。何とも鄙びた風情のこけしであるが描彩は竹雄のこけしを継承している。
 写真H嵬椶肋赦16年作。,鉢△箸亙命佑里茲Δ吠僂錣辰討い襦C殕困15年に亡くなったのが影響したのかも知れない。
 完成度の高い美人こけしは当時人気の岡崎系のこけしを真似たのであろうか。希三は岡崎才吉工場の職人もしていたからである。特定の師匠を持たないことで容易に変身できたのであろう。 
 昭和16年から22年まで南方に出征していたため作品は見られない。
 写真と嵬椶23年の作。木地形態はあまり変わらないが、クリクリ眼の面描には戦後の流行が感じられる。その後の希三こけしは、三度大きく変身して戦後を生き抜いていくのである。以上。
 「例会ギャラアリー」こけし友の会・国府田恵一氏著より。

「阿部平四郎さん」

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 『こけし手帖』平成25年5月 628号「阿部平四郎工人の死を悼む」特集より。
 「平四郎さんと私」こけし友の会・小川一雄氏著より。 
 私が阿部平四郎さんと初めてお会いしたのは、昭和49年9月の友の会 秋の旅行会「稲川・木地山・及位・肘折の旅」に参加した際の自宅であった。旅行会の一行を気持ちよく迎えてくれたことを思いだす。
 こけしの入手はそれより前の昭和46年8月、友の会頒布で泰一郎型菊模様8寸が最初であった、さらに一ヶ月後、下井草の「おおき」で2寸の5本組を入手するなど、以来「友の会」と「おおき」でいわゆる「平四郎こけし」を増やしていった。調べてみると、いつの間にか私は平四郎こけしを117本入手していた。昭和40年代14本、昭和50年代90本、平成元年以降13本で昭和50年代が圧倒的に多い。産地に行くことが少ない私には、都内のデパートなどの催しは大変有難かった。平四郎さんもよく実演に来られ、そこでお目にかかる事ができ、顔見知りになった。
 「おおき」の主人 大木幸蔵さんは収集家からお店を始めた人で、小寸こけしに力を入れていた。そこでよく組み物を買ったことも数が増えた要因である。
 昭和33年5月大浦泰英氏の勧めにより泰一郎型を復元し、以後本格的に作るようになった。戦後のこけしブームの始まりとも思えるこの時期のこけしは余り残されていない。昭和40年のこけしが2本(辞典)に掲載されている。泰一郎と本人型であるが、フォルムにおいて、表情において、魅力を感じることは未だ少なかった。昭和42年頃から古品の泰一郎や米吉などを勉強したことにより、古名品の魅力を感じることは未だ少なかった。
 昭和42年頃から古品の名品の泰一郎や米吉などを勉強したことにより、古名品の魅力を十分引き出した平四郎の作るこけしで楽しませて頂いた。
 長い闘病生活の中でも、こけしを作り続け、収集家を楽しませるばかりでなく、こけしコンクール出品の常連として活動された。『こけし手帖』の表紙や原稿や頒布など好意的にご協力頂いた。感謝する。
 平四郎さんは、平成25年2月25日亡くなられた。謹んで哀悼の意を表します。以上。
 写真は「阿部平四郎さんの小寸こけし群像」です。

「第55回全日本こけし-コンクール」

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 『こけし手帖』平成25年7月 630号より。
 第55回全日本こけしコンクールは、2013年連休の5月3日~5日の三日間に亘り、白石蔵王駅のホワイトキューブで開催された。会場では系統別各産地のこけし工人の実演やこけし販売会、絵付体験コーナー、スタンプラリー、5・5寸のミニこけしのセット販売等、盛り沢山のイベントが企画された。又同時に白石市地場産品まつりも開催されており、食品、お酒、和装品、装飾品等の特産品が並ぶ。
 かなりの人出で連休のせいもあって若い家族連れも多い。初日に1万5千人の入場者があったそうだ。 
 市では開催期間中に3万5千人程の来場を見込んでいるとのこと。宮城県と白石市の共同主催で、震災後の復興と活性化のため力を入れている。
 コンクールは五部門に分かれている。第一部伝統こけし、第二部新型こけし、第三部創作こけし、第四部木地玩具、第五部応用木製品、審査の際は第一部と四部をAブロック、第二、三、五部をBブロックとして、A,Bブロックに分割して審査が行われた。
 第一部伝統こけしの部の主な入賞者は、内閣総理大臣賞に阿保六知秀工人のくびれダルマ絵10号、経済産業大臣賞に安部陽子工人の米吉型12号、農林水産大臣賞に新山真由美工人、国土交通大臣賞に鈴木征一工人、文部科学大臣賞にピエロのおじさん(4部)の阿部進矢工人、中小企業庁長官賞に岡崎幾雄工人、林野庁長官賞に佐藤保裕工人、他25名の工人が受賞された。
 会場での実演工人は9名、遠刈田系佐藤康広、土湯系阿部国敏、山形作並系平賀輝幸、弥治郎系新山実、蔵王高湯系田中恵治、肘折系鈴木征一、木地山系高橋雄司、津軽系阿保六知秀の各工人、また鳴子系の早坂利成工人は足踏みろくろの実演をされていた。以上。こけし友の会・春日寛司氏著。

「天江富弥さんのこと」=私の思い出=

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 『こけし手帖』平成25年9月 632号「例会ギャラリー」より。
 写真,蓮⊂赦52年5月に仙台丸善で、「こけし這子の話」の復刻本を入手し、その時”こけし無限こけし夢幻”と天江さんにサインをして頂く(写真 法この時は何も気にすることなく持ち帰る。あとで大変意味深な言葉であることに気がつかされる...。
 写真△蓮天賞酒造「うま酒こけし」のワインコップのこの頃手に入れる(写真◆法昭和52年4月1日の製造ラベルがあり、大事に取ってある。「酒飲み」の本の176頁に近松義昭氏が「うま酒こけし」について書かれているのを読んで、ラベルが5種類あることに驚き、しまったと...。
 写真は、この頃仙台「炉ばた」で、天江店主からポッケベラ(大型ヘラ)で酒の肴を受け取って呑んだ記憶がある。一人でか、二~三人でか、はっきりしないが...。
 最後にワンカップのこけしに因み、私が持っている戦前のこけし三本を載せる(写真)。右から岡崎久太郎六寸弱。阿部治助六寸5分、岩本善吉五寸五分である。以上。こけし友の会・目黒一三氏著より。

「第33回みちのくこけしまつり」審査会に参加して・・・

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 『こけし手帖』平成25年12月 635号より。 
 10月4日(金)山形駅に降り立つのは何年ぶりのことか、すっかり昔と変わった駅と町波に時の流れを感じながらシャトルバスに乗り七日町へ。懐かしさから少し町をぶらぶらして審査会場に入りました。
 初めての審査員の私は緊張気味でしたが顔見知りの人がいてほっとしました。
 審査の結果は、内閣総理大臣賞は、笹森淳一工人(写真)で多くの得票を獲得しました。文部科学大臣賞に佐藤保裕工人、農林水産大臣賞に高橋順子工人、経済産業大臣賞に大沼秀顕工人が選ばれました。木地玩具の部は小林繁男工人が鼓笛隊の作品で経済産業大臣賞に、また笹森工人も山形県知事賞に選ばれました。
 翌5日(土)まつりの当日は前日から並んだ人々をはじめ大勢の参加者があり、盛大な開会式と成りました。午後3時過ぎには友の会の旅行者も到着し、会場の皆様との再会を喜び楽しいひと時を過ごしました。
 実演工人は野地三起子工人、本間直子工人、新山真由美工人、佐藤保裕工人、荒川洋一工人の5名でした。
 今回のみちのくこけしまつり(10月5日・6日)に参加して、こけしを通じて人々の和が広がることを実感しました。5日のまつり会場と懇親会で山形の工人さん、こけし仲間とも親しく語らい出会いがありました。これからも、各地のこけしに関わる方々との交流を一層深められたらと思います。以上。
 写真△蓮¬鄰六圧子工人(左)と梅木直美工人(右)です。こけし友の会・目黒一三氏著。
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