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Channel: こけしおばちゃん
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木地山系こけし展と 泥湯温泉 №1

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 平成26年8月17日東京発7時16分のつばさ123号に乗車。新庄への車内はお盆のため早朝なのにかなりの混雑。新庄から奥羽本線で湯沢へ、12時10分着。
 秋田こけし工人会の三春文雄会長が迎えに来て下さった。木地山系こけし展の会場”川連漆器伝統工芸館”は立派な建物で中に入ると木の伐採、木地挽きから塗り仕上げまでが分かり易く解説されており、お椀、お盆、食器類から家具に至るまであらゆる製品が展示されていて、川連漆器の全てが理解出来る。川連の伝統芸術家による沈金、蒔絵の実演もあって広い館内をゆっくり見学すると半日では足りないくらいである。
 木地山系こけし展は2階で開催されており、16名の現役工人の作品が展示即売されていた。木地山系こけしがこのように一堂に会するのは壮観で、愛好家にとっては好都合と言える。同時に小椋久太郎をはじめ木地山系の古品の展示即売も行われていた。
 本日の宿、泥湯温泉へは又三春文雄会長のご厚意に甘えて車で連れて行って頂く。今回の泥湯行はこけし手帖・638号に掲載された 原久邇会員の”泥湯と木地山”を拝読し、山奥深い木地山や泥湯が目の前にせまってくるような迫力が有る紀行文でぜひ現地を訪ねて見たいと思っていた。つづく。
 こけし友の会々員・春日寛司氏著より。

木地山系こけし展と泥湯温泉 №2

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  泥湯温泉への途中、木地山では故小椋久太郎工人の旧家が大きな石碑とともにそのまま残っていた。今ではお孫さんやご親戚の方がたまに訪れるほかは無人となっているとのこと。 
 ここから下がって泥湯温泉へ。こけし友の会の原会員の50年前の紀行文と重なりながら、今では舗装道路となっているが当時の面影が十分感じ取れる。
 泥湯温泉は宿三軒、宿の各部屋には久太郎の大寸こけしが並んでいる。地元の人達は木地山こけしに誇りを持っている。近代的な温泉旅館に泊まり慣れている人にはちょっと唖然とするかも知れない。原会員が行かれた頃とさほど変わっていないのではと思われるくらい昔にタイムスリップしたような感覚になる。
 泥湯はお湯が白く泥のように濁っているためそう呼ばれている。古くから湯治場として知られ明治時代には安楽泉と言われて多くの人が訪れた。泉質は酸性、鉄、硫黄塩泉。浴衣に着替えて下駄をカラコロさせて外湯へ。大露天風呂や天狗湯が風情があって楽しめる。温泉にゆったり浸かりながら秋になれば美しい紅葉と湯船に枯葉が舞ってくるのだろうと想像したりする。岩魚と山菜中心の夕食を美味しく頂いた。翌日も半日温泉を楽しんで帰途に着いた。以上。春日寛司著より。 
 ※ 木地山系こけしは、秋田県皆瀬村木地山を中心とする継投で、胴と頭の続いた作りつけである。頭部には大きい前髪と鬢に、赤いてがらをつけ、黒いおかっぱ頭もある。胴は前だれ模様が有名で、菊のみを描いたものもある。分布は、木地山,稲川町などである、

本間功工人の泰一郎型完成への軌跡

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 『こけし手帖』平成26年 645号 こけし友の会会々員 阿部均氏著より。
 木地山系こけし・本間功工人は何人かのこけし工人の木地を挽いていた時期があります。私は大阪のこけし蒐集家N氏と話す機会があり、真面目でこけし作製に真摯に取り組んでいる功工人に現在以上に飛躍して頂きたいと言う事になりました。それでは是非小椋泰一郎型に挑戦して頂きたいと思い、私の叔父にあたる小椋捨治郎工人へ連絡をして指導を依頼しました。
 平成14年4月に捨治郎工人が川連に帰郷した折、功工人と会って頂く事になり功工人の工房を訪問しました。捨治郎工人は功工人を一目見るなり、この方は信頼のおける方だと確信され泰一郎型の指導を快く了承されました。そして、この時点から功工人は捨治郎工人より木地の挽き方・描彩について長い時間にわたり指導を受けました。(写真)
 また、その時点で捨治郎工人よりこの人なら大丈夫と太鼓判をおされ「泰一郎型」の作製許可を正式に受けました。 
 その後、功工人は日々研究を積み重ね少しずつ泰一郎工人の真髄が判るようになり。秋田県こけし展で行われた全日本こけしコンクールでは泰一郎型8寸で上位の経済産業省商務情報政策局長賞を受賞しました。今後、ますます泰一郎型フォルムを研究し今以上に素晴らしいこけしを製作して頂きたいと思います。以上。
 ※ 木地山系こけし工人・本間功(昭和10年生まれ)は、昭和52年より小野寺正徳工人につき木地修業を受け、昭和57年よりこけし製作をしている。

佐藤英之こけし

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 弥治郎系こけし工人・佐藤英之(昭和52年生まれ)は、サラリーマンを経験した後、平成14年より父の佐藤誠孝工人の下で木地修業を始め、祖父の誠型を主に継承し弥治郎系こけし製作を行う三代目です。
 佐藤誠型・小倉嘉三郎型・大野栄治型・本人型(赤城山のレンゲツツジ)こけしおよびロクロ技術を応用した入れ子等を製作しています。
 平成16年の全国こけし祭りコンクール(鳴子)に入賞して以来、各種こけしコンクールで入賞いています。 
 写真のこけしは誠型三種類です。
 英之工人より説明をして頂いたので引用します。右は誠古型ロクロ線です。頭頂に緑が使われ嘉三郎工人の下で修業した弥治郎時代に考案したものです。中央は誠古型作り付ロクロ線です。頭頂に紫が使われいわき市で会社を経営していた頃の人生の中で最も充実していた時代のこけしです。左は誠旧型直胴椿模様です。晩年の岩手県でこけし製作をした時代のこけしです。
 三種のこけしは誠工人を思わせる素晴らしい出来栄えです。
 平成22年弥治郎こけし神社で「初挽き」を行い、技術・描彩共に優れた若手工人として多くのこけし愛好家が認めています。
 ※ 弥治郎系こけし工人の佐藤一家は、佐藤誠、父の佐藤誠孝、母の佐藤美喜子、そして弟の佐藤裕介がそれぞれ工人として活躍している。こけし工人仲間でも、若い一家は、期待が大きいのです。
 

「佐久間俊雄のこけし」

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 『こけし手帖』平成27年1月 648号「例会ギャラリー」こけし友の会・田宮順一氏より。
 昨今、第三次こけしブームなどと謳われているが、戦前の第一次、高度経済成長期の第二次とは趣が違う。
 若い女性を中心に、各々がこけしに付加価値を見いだし、こけし界に旋風を巻き起こしている。こけし戦国時代の幕開けである。
 「同じカテゴリのものが沢山並んでいるフェチ」である私は、こけしが沢山並んでいる様、空間に何とも言えぬ暖かさ、癒しを感じました。
 大量生産、大量消費時代に生まれた私は、プラスチック素材の玩具に囲まれて育ちました。そこで蒐集していたものが、…………といったカナカナ洋顔と胴だけのシンプルなプラスチック製の人形でした。初めてこけしに出会った時に、姿形は勿論ですが、木製の玩具にありもしない田舎への郷愁を覚えました。そしてこけしの蒐集への深みへと嵌って行ったのです。
「佐久間俊雄」は、浅之助・由吉・芳雄・俊雄と続いた土湯の湊屋直系の工人です。こけし制作期間は短いのですが、年代毎に表情の特徴を追っていきます。
 写真,蓮⊂赦52年・びんが最も長い、ガラス眼。
 写真△蓮⊂赦54年(ピーク期)・びんが短く、つぶし目等表情豊かに。
 写真は、昭和55年・びんがまた長くなり、目・眉が吊上がってくる。
 写真い蓮⊂赦56年・びんの下方が開き、目・眉共に最も吊り上がる。
 写真イ蓮⊂赦57年・びんが真直ぐに戻り、目大きく開く。
 「俺の体には赤まんまがある。」と由吉は言った。土湯の正統な流れを汲む聖痕と云われる赤いあざ。その赤いあざが私にもある。俊雄と私を結びつけた呪力であろうか。以上。 
 こけし友の会・田宮順一氏著。

鳴子こけし祭り(人形の家)

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 『こけし手帖』平成27年1月 648号より。国府田恵一氏著より。
 東京近辺では今年(平成26年)最後となるこけしのイベント「鳴子こけしまつり(横浜人形の家展)」が11月の29、30の両日開催された。今年は会期が土・日の2日間で昨年より1日少なく、また会場の場所も変わって、一回り小さな場所になっていた。さらに、人形の家の入館料(大人400円)も必要ということで、厳しい経済状況が窺われた。 
 初日の29日は雨模様で、会場周辺の黄色に染まった銀杏並木もややくすんで見えた。午前中は混雑が予想されるので、一段落した午後2時に会場を訪れる。思った以上に来客があり、橋本会長ほか友の会の会員の顔も見える。出演工人はいつもの4人のうち早坂利成さんが抜け、大沼秀顕さん、高橋義一さん、柿澤是伸さんの3人であった。(写真◆冒畉笋気鵑2週間前の高岩寺での実演に上京しており、今回はお休みしたのであろう。
 さて、今回の特別作品はと辺りを見回すが、それと思える物が見当たらない。秀顕さんに聞いて見ると、忙しくて作る余裕がなかったという。ということで残念ながら、今年は3人の目玉の作品が見られなかった。
 会場内は3工人それぞれのコーナーの他、他の鳴子系工人の作品コーナー、木地玩具と遊ぶコーナー、絵付けの体験コーナーなどが並ぶ。また、今年の全国こけしまつりの入賞作品も展示されていた。義一さんはロクロと描彩の実演を一手に引き受け、(写真)是伸さんは絵付けの補助、秀顕さんはもっぱら客の応対に走り回っていた。
 3工人の小寸こけしを3本求めると、抽選が2回引け、絵葉書と買ったこけしより大きな義一さんのこけしが当たった。ここの抽選は当たる確率が高いようだ。
 何はともあれ、この横浜でのこけし展が来年も無事に開催されることを祈念して会場を後にした。以上。友の会々員・国府田恵一氏著より。 
 

絶世の美女こけし №1

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 数あるこけしの中でも絶世の美女と言われているこけしがあるのを多くの人達はご存知でしょうか。
 現在多くの人達がどのようなこけしを求めているのか販売状況を見ていますと、以前は土湯系のこけしが全盛を極めていましたが、最近は津軽系全盛の感があります。こけしの好みも時代によって変化すると思いますが、好みは別として絶世の美女と言われているこけしとはどのようなこけしなのでしょうか。
 写真は、甘く美しい菅原庄七こけし。「大頭で頭一杯描かれる赤いてがらが満艦飾の如く放射し、青ろくろと達筆な菊花が照り返って芳醇な情緒を出し、切れ長の瞼涼しく、ほんのりと淡い頬紅と長目の両鬢とまって艶麗比いのない絶世の美女を創り上げた」と「こけし鑑賞」の著者の鹿間時夫氏は言って、この庄七こけしを採り上げている。また「庄七の作は艶麗豊潤で甘美群のチャンピオンにあたる」と評している。こけしの後ろには赤い三山があり、大きなアヤメが描かれています。
 菅原庄七は明治28年4月に菅原東治・みよしの二男として宮城県栗原郡栗駒町に生まれ、昭和47年2月宮城県秋保町で没しました。享年76歳であった。
 菅原庄七は鳴子の高橋武蔵と共に戦前戦後を通して長い木地製作を常に現役でこけし作りを行っていた双璧と言われている工人で、両名ともに長い間作られたこけしには大きな変化のない点も共通するところがあります。(つづく)。こけし友の会々員・麻生修氏著。

絶世の美女こけし №2

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 『こけし手帖』平成27年2月号 649号 こけし友の会々員・麻生修氏著より。
 写真,蓮⊃蕎閏掘⊂赦41年の尺で「たつみ」の森さんから麻生さんの庄七を復元したいので貸して欲しいと言われ、森さんが「前記の写真のこけし」を庄七の所へ持ち込んで何本か作った。その時に作られたこけしです。眼は前記のような表情には到底及びませんが、全体から受ける印象は淡い頬紅を付けた美しいこけしで、絶世の美女こけしとなっています。
 戦後の庄七は頭が小さめになっていますが、この庄七は復元の効果があったようで頭も大きく、ほんのりとした淡い頬紅を眉の下から描き、まさに絶世の美女のこけしであると思います。
 写真△肋赦10年頃の6寸3分と7寸で、保存も良く眼の感じがもう少しですが、標準的な作品だと思います。
 写真は、昭和41年の小寸6本で、左2本は「青坊主」と言われているもので幼児の髪のすり跡を表したものです。
 庄七の小寸物は大寸物とは異なって変化に富み、初期の作品と変わらない出来の良いものが多くありますので、探す楽しみもあると思います。
 私は今年で81歳になりますが、私が初めてこけしに出会ったのは小学校4年生の時です。昭和18年頃だったと思いますが、戦争が激しくなるとの予測で東京の小学校は各地に分散して学童疎開をする事になりました。
 私の学校の全生徒は宮城県鳴子温泉に学童疎開する事となり父母とも別れ、暗い夜汽車で出発したのを今でも思い出し忘れる事はありません。つづく。

絶世の美女こけし №3

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 疎開先の鳴子の旅館の立ち並ぶ温泉旅館は全て学童達で溢れていました。街のあちこちに店があり、木の人形が並んでいたのです、こけしと言う名前を知り興味を覚えた記憶がありありと思いだします。 
 一年近く鳴子での生活でしたが、こけしを手にすることは適いませんでした。これが私にとって始めてこけしに出会った時と場所です。
 その後、昭和36年頃にある場所で偶然こけしを見たのです。胴が少し反り返っているあの形です。「鳴子こけしだ」と思いました。頭の中には走馬灯のように昔の思い出がくるくると回るのが消えませんでした。
 鳴子、思い出深いその町。私にとって鳴子こけしが原点なのですが、その後は「こけしガイド」を手にしての蒐集活動が始まり「こけし友の会」にも参加させて頂きました。
 当時は今のように中古品はありませんでしたので、新品が入札品だけで、サイフと相談しての入札に参加するのが大きな楽しみでした。
 今、津軽系に人気が集まっているようですが、こけしの楽しみは各系統の中から良いものを選ぶ楽しみがある訳なのに、これを失ってほしくないと思います。もう少し幅広く見つめ直して、こけしの美を求めて欲しいのです。今人気のないこけしも必ず見直され、あの時に求めておけば良かったとの思いをする時があったのを、時代の流れの中で思い出として私の中に残っています。
 又、現在大寸物に人気が無いようですが、こういう時こそ求めるチャンスなのです。時代の流れの中で見逃さずに求める事が、将来悔いを残さない蒐集の時と思います。 
 こけし文化を長く育てる意味でも多くの方達が幅広くこけしを愛して侮らない蒐集をしてほしいと思います。(平成26年記)以上。こけし友の会々員・麻生修氏著より。

佐久間常雄ーこけし蒐めの縦・横・ナナメ 

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 『こけし手帖』平成27年2月649号「例会ギャラリー」佐藤英里子氏著より。
 友の会60周年の記念展示「友の会の名品と思い出のこけし」(平成24年7月~10月、カメイ美術館)に、私は佐久間常雄の小さなこけしとエジコを2本づつ出品しました。(写真)
 なぜ佐常なの?と先輩方に声を掛けて頂き、個人的な思い出のこけしとしての佐常ー佐久間常雄について、その後も色々知ることが出来ました。
 佐久間常雄は明治39年生。実父の常松は佐久間浅之助の六兄弟のうちの三男だったが、常雄が10才で死別。まもなく母親は浅之助の六男米吉と再婚、米吉が養父となった。12才には叔父である由吉について木地修業、その後鉄工場や自動車修理工と職を転じたが、昭和16年、継父米吉の力添えで自分の木工所を開業。師匠や他の佐久間兄弟と混同しないため、屋号を「佐常木地屋」とした・・・ 
 私が初めて佐常のエジコを手にした時、佐常を「さつね」と読む事も知りませんでしたが、なんともとぼけた本人型の表情に惹かれ、友の会でも細々と買い集めるようになりました。二人の師匠(由吉と米吉)の型を写した伝統型も手に入れ文献で調べるうちに「佐常」の記名には常雄の並々ならぬ気概が表われているのかも、などと物語が浮かびます。 
 興味を持ち集めていると諸先輩から教えて頂くことが多く、今回は戦前の佐常を見せて頂きました。北村育夫会員蔵の昭和16~17年、佐常木地屋として独立した頃の作品ではないかとということです。特異な表情と共に、継父である米吉のこけしの面影を見ることが出来ます。
 師匠を継いだ伝統型、本人型の創意工夫、そして集める人の思い―こけし蒐めはその縦・横・ナナメ、どこから見ても面白いと感じています。以上。

「えひめ国体閉幕」

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 第72回国民体育大会「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」は最終日の10日、松山市上野町の県総合公園ニンジアムスタジアムで総合閉会式が行われた。会期前を含め計18日間にわたり全国のアスリートが競い合ったスポーツの祭典が幕を閉じた。
 愛媛は冬季と合わせ男女総合成績2395.5点、女子総合成績1196.0点で男女総合(天皇杯)、女子総合(皇后杯)はいずれも2位と得点、順位とも過去最高となった。1位の東京との得点差は139.5点。
 3年後に五輪を控え、豊富な選手層と資金力を備えた東京と「互角に戦えたのは大きな自信になった」と中村時広愛媛県知事は評価していた。
 11日間、全国のトップアスリートによる熱戦が繰り広げられた。各会場で選手が力強く躍動する姿は多くの人に夢や感動をもたらし、記憶として心に刻まれました。開会式での選手や関係者の皆さんのたくさんの笑顔(えがお)が次回開催の福井や東京五輪・パラリンピック世界へと広がることでしょう。
 前回の国民体育会は、62年前だとか、兄が中学生の時だったので父と開会式を見に行ったということを覚えている。
 愛媛県は温和で風光明媚、地理的にも広いため、各競技場所が遠くに広がり、なかなか応援に行く事が出来なっかたが、最終日の「男子バレー少年の部」の応援に行く事が出来た。松山市のとなりの伊予市にある「しおさい市民体育館」で行われた男子バレー決勝戦を観戦、多くの応援の方達の熱気に圧倒されたが、久しぶりの熱戦に感動しました。各会場には、ボランティアの方々、そして各会場まで乗合すシャトルバスの運転手さんの方達に感謝することを忘れてはならない。ご苦労様でした。

 

「先ずは11系統を揃えよう」

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 こけしの集め方・楽しみ方(1)
 「先ずは11系統を揃えよう」 こけし友の会・国府田恵一氏著より。  
 こけしは球形の頭に円筒形の胴を付けただけのシンプルな人形。しかし、その集め方・楽しみ方は十人十色です。その幅の広さ、奥行きの深さは計り知れません。永年集めている方には当たり前の事も新しい方にとっては初耳といったことも多々あるようです。そんなこけしの集め方・楽しみ方について紹介していきたいと思います。 
 こけしの蒐集は、自分の気に入ったこけしを集めれば良い訳ですが、闇雲に集めるよりは何らかの基準(目標)を決めておいた方が楽しみも増し、蒐集にも力が入るものです。
 こけしには現在11系統があるので、先ずはこの11系統のこけしを揃えることから始めましょう。
 ー命燭留Δら【土湯系】頭が小さめで胴も細く中央部でやや膨らんだ形態をしています。頭頂部には黒い蛇の目模様が描かれるのが特徴。胴模様は細いロクロ線が主体で、それに簡単な花模様を加えることもあります。
 右から2番目【弥治郎系】頭は大きく胴も太目で中ほどに括れのあるものもあります。頭頂部にはベレー帽状の多色のロクロ模様が描かれるのが特徴。胴もロクロ線を帯状に描き、襟や裾を描いたり花模様を入れたりしています。
 1Δら3番目【遠刈田系】頭は大きく胴はやや細めで真っ直ぐの直胴が多いです。頭頂部には赤い放射線状の手絡模様が描かれるのが特徴。胴には抽象化された各種の花模様を華麗に描いています。
 けΔら4番目【作並系】頭は小振りで胴は細く立ち難いのが本来の形ですが、胴下部を台状に太くしているものもあります。頭には環状の赤い飾り、胴には蟹のような花模様を描いています。
 ケΔら5番目(左端)【鳴子系】胴が太く肩に段があり、首を廻すと「キイキイ」と音がするのが特徴です。頭頂部には水引と呼ばれる赤い髪飾りを付け、胴には写実的な花模様を描きます。つづく。

「先ずは11系統を揃えよう」

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 こけしの集め方・楽しみ方(2)
 ー命娠Δら1番目は【蔵王型】遠刈田系から分かれた系統で、遠刈田系よりも胴が太く重量感に富んでいます。頭部は黒く塗り潰したオカッパ頭もよく見られます。
 ⊆命娠Δら2番目は【山形系】作並系から発展した系統です。頭頂部には環状の赤い飾りを描きます。胴はやや細めで、華やかな花模様を胴一面に描いています。
 写真右から3番目は【肘折系】遠刈田系と鳴子系が融合した系統です。頭は大きく胴も太めで肩に段のあるものもあります。口の描彩など写実的な顔を描き、胴には菊や撫子などの花模様が描かれます。
 ぜ命娠Δら4番目は【木地山系】鳴子系から分かれた系統です。一本の木で頭と胴を作る「作り付け」という形態が特徴。胴には前垂れ模様や菊の花模様が描かれます。
 ゼ命娠Δら5番目は【南部系】キナキナと呼ばれる頭がクラクラと動く形態が特徴です。本来は無彩のものですが、これに描彩した物ものも作られています。
 写真右から6番目は【津軽系】11系統中最も新しい系統。形態は作り付けが基本で胴の中程が括れたものも多いです。頭は黒頭が多く、髷を付けたものもあります。胴にはアイヌ模様や牡丹模様、又ねぶたの達磨模様などが描かれて人気があります。
 さて、11系統のこけしを並べて見ましょう。並べて見比べることで各系統の特徴、他系統との違いなどが分かり、こけしへの興味が一層増します。
 最近は小さなこけしに人気があるようですが、6寸位は欲しいものです。
 11系統を集めるうえで大きさを揃えるという条件を加えると蒐集はその分難しくなりますが全部揃った時の達成感はより大きなものになり、更なる蒐集への意欲が増すものです。さあ、自分なりの11系統を揃えてみましょう! 以上。こけし友の会・国府田恵一氏著より。

弥治郎こけし初挽き

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 『こけし手帖』平成27年2月 649号より。
 平成27年弥治郎こけしの初挽きは小野宮惟喬親王神社・こけし神社にて、1月2日午前10時より挙行された。
 今年の初挽き実演者は武田憲好工人。寒くて手先が思うように動かない状態で素早く作り上げ、出来上がったこけしはこけし神社に奉納された。
 武田憲好工人は昭和45年2月生れ。父は武田憲雄工人、母は新山左京工人の妹でこけし一家の家系である。父、武田憲雄工人は昭和7年生まれ、昭和45年より新山左内(義父)の弟子になり木地を修業し昭和51年に独立する。
 憲好工人は、新型こけしを5年、伝統こけしを5年、新山左京工人に師事。新山左内型・新山左京型を作り続けていきたいと抱負を語っていた。
 こけし工人の高齢化で寂しい思いを感じているが、若い工人さん活躍してくれることは嬉しい事です。
 ※ 写真△蓮∋笋旅イな弥治郎系こけし工人・佐藤慶明(昭和11年生まれ)が平成21年の弥治郎こけし初挽きの時の写真です。当時はまだお元気でしたが、現在は病気療養中です。奥さんも3年前に亡くされ寂しい思いをされています。が、嬉しいことに、慶明工人の弟子になった高田稔雄工人(昭和44年生まれ)の「幸太型8号」が全日本こけしコンクールにて、内閣総理大臣賞を受賞。一番の嬉しいニュースでした。

芹沢洋治こけし

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 芹沢洋治工人は仕事で福島県の高湯温泉に滞在された際にこけしと出会い、昭和48年頃から篠木利夫・渡辺義雄両人より木地・描彩の指導を受け、こけし製作を始める。 
 昭和62年に福島県から長野県茅野へ移られ白樺湖にてユースホステルの経営に従事される。
 ユースホステルの経営の傍ら、利用者に伝統こけしや独楽を通じて東北を深く知って欲しいとの考えから伝統こけしを紹介したり、お子様に独楽作りの実演をして木地玩具の世界を紹介する活動をされている。 
 洋治工人を知ったのは偶々見ていたテレビで長野県にて独楽・こけし作製をされる伝統こけし工人が紹介されたのが切っ掛けでした。
 写真のこけしは、本人型二種類です。右は配色が大変素晴らしいロクロ線です。左は土湯系の独特の返しロクロ模様です。両こけしとも頭頂には蛇の目模様、独特の表情をした愛らしいこけしです。
 洋治工人から売上の一部を東北の復興の為に役立させて頂きますとのお話を頂いています。
 今後も多くの人に東北を深く理解して頂く為に伝統こけし・独楽を作り続けて下さい。
 (こけし友の会々員・田中厚志氏著)より。
 ※ 土湯系こけし工人・芹沢洋治工人(昭和18年生まれ)。師匠の篠木利夫(昭和6年生まれ)と渡辺義雄(昭和4年生まれ)は共に、吾妻高湯に土湯の長老、佐藤佐志馬の弟子として修業し、土湯の伝統こけしを確立した。

小松五平のこけし

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 好みの工人のこけしは自然に多く集まってくるもので、私のお場合は西山勝次、新山栄五郎、阿部常吉等と並んで外鳴子小松五平もその一人である。五平のこけしの多様で古風な胴模様と素朴で情味深い表情は、古鳴子の味わいを感じさせ、蒐集意欲を大いに刺激される。特に大正期の古作から昭和13年頃までの五平のこけしは秀逸と思う。大寸から小寸までそれぞれがそれぞれの良さを持ち、バラエティに富んで見飽きない。
 小松五平は明治24年の生れ、明治40年に鳴子の高橋万五郎に弟子入りするが、明治41年には鳴子を離れ、各地を遍歴、結局大湯温泉に落ち着く。比較的早い時期に鳴子を離れており、古い時代のこけしの味わいを伝えているのも頷けるところである。
 写真,禄藉慮淙燭海韻掘5寸3分、鈴木鼓堂氏の旧蔵品で「こけし這子の話」と同趣の作で大正期のこけしとされている。蕪頭に直胴のすっきりしたフォルムに、まったりとした表情と複雑な菊の模様である。
 写真△4寸、小さい頭に括れた胴のバランスが良い。太筆のラフな表情が面白い。水流れが残念なところ。正末昭初の作ではないだろうか。
 写真は6寸、米浪庄弌氏の旧蔵品である。胴模様は芥子か。こちらも古風な印象のこけしである。「こけし辞典」では大正後期の作例として採り上げられている。
 写真い1尺、大寸の作例である。旧蔵者は久松保夫氏。端正な表情、蕪頭で直胴、形も良く整っている。昭和初期の作か。
 写真イ蓮嵬攘岨卉盟僉彳閏蠅脳赦9年作と思われるこけし。6寸5分、痴娯の家の旧蔵品である。筆は細いが勢いがあり、いわゆるピーク期と言われている頃の作である。
 『こけし手帖』平成27年5月 652号『例会ギャラリー』こけし友の会々員・鈴木康郎氏著より。

秋田県こけし展

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 第39回秋田県こけし展は平成27年3月14日(土)・15日(日)の2日間、秋田県湯沢市の「犬っこまつり」と同日時に湯沢市市民プラザで開催された。
 私は14日夕方、大雪の予報の中、秋田新幹線で東京を発ち大曲で奥羽本線に乗り換え、夜9時30分過ぎ、無事雪の降る湯沢駅に着いた。
 翌日断続的に雪が降る中、会場に着く。早々、三春文雄工人会代表と沼倉孝彦工人が迎えてくれた。また会場で会計をされていた湯沢市職員の村上さんと一年ぶりの再会を喜び、今年のこけし展の様子を聞く。
 今年も昨年の売り上げを超えたとの事、こけし界が少しずつではあるが発展しているとの事を確認し、嬉しく思った。また、雪の秋田で友の会の皆さんの顔をみかけて、二重の喜びであった。
 39回の年数を重ねただけに、地元に根強い人気があるようだ。特に初日の開館と同時に自分の欲しいこけしに向かって、先を争う場面があったと聞いた。つづく。
 東京こけし会・橋本永興会長より。

秋田県こけし展

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 コンクール受章者は秋田県知事賞・三春文雄、湯沢市長賞は阿部市五郎、秋田県魁新報社賞・小野寺正徳、河北新報社賞・小椋英二、朝日新聞社賞・本間功、毎日新聞社賞・菅原修、読売新聞社賞・佐藤達雄の7工人であった。
 無審査工人は高橋雄司工人、阿部陽子工人の二名である。長い間木地山こけしを作り、その優秀な技術と地元に貢献されていることが評価されたとお聞きした。
 最高賞の秋田県知事賞は三春文雄工人で小椋石蔵型である。従来の絣前垂れ模様ではなく、簡素な絣前垂れ模様がスッキリとしている。三春工人の信念である原に忠実に作る事であるが、最近は自分の作風が加味して表現しているのは流石である。
 今回初入賞の佐藤達雄工人は沼倉孝彦工人の木地の師匠でもある。描彩の沼倉工人、木地の佐藤工人の二人が協力し合えばこれからこけし製作活動が広がりそこから生まれるこけしが楽しみである。
 他の受賞作を含めて展示即売に並ぶこけしはそれぞれ原に近い出来上がりが目立ち、各工人が伝統性を尊重されているのを感じた。
 展示こけしでは高橋雄司工人、本間功工人の両ベテランや阿部市五郎工人、佐藤達雄工人、柴田良二工人は沢山のこけしを出品され買う立場になって色々なものが選べるのは楽しかった。
 東京八王子の小椋英二工人の小椋久太郎型を出品していたが、ボリュウム感ある前垂れこけしは中々存在感があった。
 秋田県こけし工人会の皆さんがひとつになって木地山系や他系統のこけしの発展に協力し合って頑張って頂ければ、これからますますこけし愛好家の人が秋田へ訪ねて来てもらえると思った。
 ※ 会場2階の「七夕絵どうろう」を見た。美人画や浮世絵が夜空をかざる美しいお祭りであろう。同時期に夏のこけし展を開催されたら楽しいのではないだろうか。以上。「秋田県こけし展報告。」こけし友の会会長・橋本永興著より。

小林清次郎さんを思う

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 平成27年3月11日小林清次郎さんの訃報を聞き残念に思っている。 
 山形系こけし工人 小林清次郎、文字どおり小林家を、更に言えば山形こけし界を代表する工人で、誰にでも歯に衣着せぬ山形弁でズバリと思う事に直言する人であった。
 私なども「東京こけし友の会」会長在任中は、特に会への批判を浴びせられたものであった。もとより私も議論が好きな方であったので、必ず言い返し、決着がつかない事も多かった。
 私としても、良い相手を失って淋しい思いをしている。
 清次郎は注文を受けて各種の小林家のこけしを復元しているが、作るこけしは吉太郎によく似ており吉太郎型が主体であったと思う。形は吉太郎型であるがその筆致は清次郎独自のもので、幸い息子や弟子の後継者に恵まれているが、後世に伝え残したいものである。写真は代表的なこけしです。
 清次郎さんのご冥福をお祈りいたします。以上。前こけし友の会々長・柴田長吉郎著より。
 ※ 小林清次郎(大正7年~平成27年)享年98歳。山形系こけし第一人者。故吉三郎の次男で、主として伯父吉太郎の型を研究し、数多くの型をつくっているが、いずれも成功している。山形系に中では再興の人気の作者である。

会田栄治さん〈追悼〉 

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 平成27年3月12日の夜遅く、友の会幹事への連絡で訃報に接しました。その瞬間に深い悲しみと共に今後の山形系こけしの行方を漠然と憂慮しました。
 会田栄治さんとは平成21年10月に友の会創立56周年旅行会でみちのくこけしまつりを訪問した際に、旅行会メンバーと会場近くのおでん屋で昼食を共にした際に初めて親しく会話をさせて頂きました。私より一回り以上の方ですが、終始笑みを湛えて接して頂いた事が今も記憶に深く残っています。
 その後、友の会創立60周年記念展示会をカメイ美術館で開催するにあたり、山形伝統こけし館が収蔵されている名品こけしの貸出に際して貴重な助言と支援をいただいた時も何時もと変わらぬ接し方をして頂き感銘を覚えました。栄治さんの人柄を表す言葉が百万塔のなかに添えられた文章に「昭和の百万塔は、遠く山形こけしの里の工房で永遠の平和を念じ復元された。」とあります。
 平成25年7月の山形県こけし界総会懇親会でお会いした際に入院先の病院を抜け出して来たと言われていたので大変心配をしました。その後、昨年春にこけしをお願いした際は「もうこけしは作れない」と言われたので大変憂慮していました。
 栄治さんは天童市久野本の絵師と木地挽きの環境に生れ、昭和20年より木地挽き修業を始めた。昭和24年に自宅で独立後、昭和29年に神尾長八型こけしを完成させる。昭和37年天童市に移住して現在のお店を経営する傍らこけし製作をした。
 栄治さんは第13回みちのくこけしまつりで内閣総理大臣賞、第33回全国こけし祭りで文部科学大臣奨励賞、第48回全日本こけしコンクールで内閣総理大臣を受賞され、三大こけしコンクールの全てで最高賞を受賞しています。
 また、永年に渡り山形こけし会会長を務められ毎年の総会・みちのくこけしまつりおよびこけし塚供養祭に尽力され、大変なご努力であったとお察しいたします。
 最後に栄治さんのご冥福をお祈りいたします。以上。こけし友の会・田中厚志著より。 
 ※ 私も、数年前、全日本こけしコンクールに参加した時。天童まで足をのばして天童市の会田栄治工人を訊ねました。相変わらずおおらかな会話で喜んでくださいました。わが家にも会田栄治こけしが並んでいます。寂しい限りです。
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