木地師のうちには生涯のうち転々と所在を変えて移住する渡りのくせのある人がいる。この傾向は大なり小なり多くの木地師に見られた。鳴子の大沼岩蔵は中山平で亡くなるまで青根・鉛・大鰐・川連などへ出かけ多くの弟子にの影響をあたえたし、鈴木庸吉も鳴子を出て鉛・台・大鰐・山形・仙台・滑津等転々とした。現在花巻にいる佐藤誠は弥治郎を出てから戦前は永らく平市におり、戦後前橋に移り現在は花巻にいる。このように同一人が所在地を変えるので、異常分布や臨時の出現をすることがある。北海道や関東以西は後代の植民地にすぎない。弥治郎系と遠刈田系、それより分出した蔵王高湯系・肘折系等は熊沢系木地師の属する。仙台藩の御抱木地師新国掃部(にっくにかもん)は会津より来て刈田郡湯の原に居をかまえ、のち宮城郡大沢村愛子(あやし)より作並に移った。作並の木地業は古く、仙台高橋胞吉の先代は天保の頃会津より来て藩の御用を勤めたという。熊沢系とは別個のものであるらしい。
社会思想社発行『こけし 美と系譜』より。写真は鳴子中山平温泉