『こけし手帖』平成18年1月号 540号より
大野栄治工人のこけしは嘗て入手困難なこけしの一つとして又、高価な物としてコレクターの心を焦がしていた。最近になり、当会の入札やネットオークションでも、しばしば見かけられる様になった。私も入手を心掛け、手元にも30年代前後の物が少々集まった。
工人の作品の良さは言わずもがなかも知れぬが、絶妙な木地にあり、そのフォルムは曲線と直線の微妙な変化と全体の調和は素晴らしいに尽きる。弥治郎時代の写真を見るに生来の物なのかと推察される。又、描彩はマテで気品に満ち溢れて、見る者を魅了する。
同工人は明治37年2月10日生まれで15歳の時に嘉三郎に弟子入り、兄弟子の佐藤誠に習った。退職後、師匠の長女と結婚。昭和3年には師匠名義の梅こけしを作る。当時の逸話として、こけしの胴模様を描くにあたり兄弟子の佐内は「松」・春二は「竹」・栄治は「梅」となった由。幼長の順かと思われる。
翌年、北海道屈斜路湖畔のホント市街、6年には川湯温泉に家族で移り住む。残された嘉三郎は梅こけしの描彩に苦慮したと云われている。只、栄治もこけしでは生計が立たず、7年以降漸く生活が安定したようだ。遠隔地で寡作であったこと又、昭和14年頃から25年迄は殆ど作らなかった事からも稀少な物であった。
写真左から昭和30年頃、頭は同33年、鹿鳴調のペッケは同33年、えじこは同39年、端は同41年作である。参考までに、誠考工人作の、ペッケとえじこを並べてみた。夫々の個性を対比戴きたい。以上。 例会ギャラリー 平塚俊夫氏著。